典型的な動機は「金銭」である。ギャンブルや女遊びに傾倒している人物は狙われやすい。その次は意外に思われるかもしれないが「冒険心」である。そもそも諜報活動に興味があり、スパイに憧れているような人物だ。子供じみた動機に見えるが、仕事熱心なジャーナリストなども広義にはこのタイプである。相手の差し出す情報に目がくらみ、独自の情報源を持っているという「特権意識」に抗(あらが)えなくなってしまうのだ。
そして最後は「友情」である。
ただでさえ情報部員は例外なく好人物である。誠実で情に厚く、義理堅い。個人的な悩み事にも真剣に耳を傾ける。
とある日本人は、入院中の妻の医療費を工面するために情報提供をしていたが、妻が病死して以降も情報提供をやめなかった。ロシア側エージェントが「奥さんは亡くなっているのだから、もう情報を受け取るわけにはいかない」と申し出たにもかかわらずである。
これはロシア側の計算か、友情か。
おそらく両方である。沈着冷静に任務を遂行できなければ、スパイ失格である。しかし、ごく自然にこうした言葉が出てくるぐらいにリスペクトがなければ、相手の心に入り込むことはできないであろう。スパイの極意とは、まさしく砂地に雨粒が染みこむように、相手に浸透することなのだ。そこには銃撃戦もカーチェイスもない。今日も彼らは世界中のあらゆる場所で、本物のまごころと誠意を武器に目標の心に忍び込もうとしている。
津久田重吾(つくだ じゅうご)
小説家・ライター。旧ソ連圏を始めとしたミリタリー系の著作を執筆するほか、漫画などの軍事面の考証・監修も数多く手掛ける。近著に『いまさらですがソ連邦』(速水螺旋人と共著、三才ブックス)。主な監修作品には『BLACK LAGOON』(広江礼威、小学館)など。最近では「戦後、冷戦で東西に分断された仮想の日本」を描いた『国境のエミーリャ』(池田邦彦、小学館)も監修。
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