NHK大河「麒麟がくる」でも登場 織田信長の意外な真骨頂、“情報戦”と“危機回避能力”とは時代考証担当の研究者が解説(2/4 ページ)

» 2020年03月21日 09時00分 公開
[小和田哲男ITmedia]
※本記事はアフィリエイトプログラムによる収益を得ています

軍議をやらず雑談ばかり……信長の秘策

 桶狭間の戦いの前夜、すなわち永禄三(1560)年5月18日、織田信長の重臣たちは清須城に集まった。今川義元が三河・尾張の国境を越えて沓掛城に入ったからである。重臣たちは、今川軍をどう迎え撃つかの軍議が開かれると思い待機していた。

photo 小和田哲男(おわだ・てつお)。1944年静岡市生まれ。72年、早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了(文学博士)。静岡大学講師、助教授、教授を経て、現在、静岡大学名誉教授(日本中世史専攻)。戦国時代史研究の第一人者。NHK「歴史秘話ヒストリア」「知恵泉」など歴史番組での解説に定評がある。2020年「麒麟がくる」をはじめ数多くのNHK大河ドラマで時代考証を担当。

 ところが、太田牛一の著した『信長公記』には、「其夜の御はなし、軍(いくさ)の行(てだて)は努々(ゆめゆめ)これなく、色々世間の御雑談迄にて、既に深更に及ぶの間帰宅候へと御暇下さる」とあり、軍議は開かれず、雑談ばかりで、「もう夜もふけたので、家にもどれ」といわれたことが分かる。

 『信長公記』のその続きに、「家老の衆申す様、運の末には智慧(ちえ)の鏡も曇るとは此節なりと、各嘲哢(ちょうろう)候て罷(まかり)帰へられ候」とあり、重臣たちも暗澹(あんたん)たる気持ちになり、信長をばかにする者もあらわれたことがうかがわれる。

 この夜、信長が軍議を開かなかったのはどうしてなのだろうか。

 このとき、今川軍2万5000に対し、織田軍はせいぜい4000である。まともにぶつかって勝てるわけはないので、清須城に籠城(ろうじょう)するか、奇襲に打って出るか2つに1つしかない。

 おそらく信長は、軍議を開いても、重臣たちは籠城を主張すると読んでいたものと思われる。

 信長自身はすでに奇襲策を考えていたが、軍議の場でそれをしゃべれば、敵に伝わってしまうかもしれない。信長は家老衆という重臣たちにも心を許していなかったのである。

 実は、信長が機密漏洩(ろうえい)を極度に警戒したために起きた出来事がもう1回ある。それが、天正三(1575)年5月21日に武田方と死闘を繰り広げた長篠(ながしの)・設楽原(したらがはら)の戦いの前夜、すなわち5月20日の軍議の場面である。

 このときは、信長と徳川家康の連合軍なので、前夜、信長の重臣たちと家康の重臣たちを交えての軍議が開かれている。その合同軍議の場で、家康の重臣筆頭酒井忠次が、「長篠城の付城として武田方が築いた鳶ヶ巣(とびがす)山砦(とりで)を攻めてはいかが」と作戦を進言した。すると信長は、「その方は、三河・遠江の小競りあいには慣れておろうが、このたびは、相手も万を超える大軍。そのような手は通用しない」と一蹴してしまっているのである。

 居並ぶ信長の重臣たちの前で恥をかかされた格好の忠次は、すごすごと自分の陣所にもどっている。ところが、陣所にもどるや否や信長からの呼び出しがかかり、「先ほどの作戦みごとである。しかし、あの場でそれを決めると、敵に筒抜けになるおそれがあり、あのようないい方をした。味方にも気付かれぬように鳶ヶ巣山砦への出陣を命ずる」とのことであった。

 実際、この酒井忠次隊の奇襲攻撃を受けた鳶ヶ巣山砦の武田軍が麓に追い出され、それに押される形で武田軍主力が設楽原に出て、そこで信長の鉄砲隊の餌食になった。機密保持が長篠・設楽原の戦い最大の勝因といっていいかもしれない。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.