NHK大河「麒麟がくる」でも登場 織田信長の意外な真骨頂、“情報戦”と“危機回避能力”とは時代考証担当の研究者が解説(4/4 ページ)

» 2020年03月21日 09時00分 公開
[小和田哲男ITmedia]
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ピンチの際は「逃げ」こそ名将の証!?

 元亀元(1570)年4月20日、織田信長は大軍を率いて越前の朝倉義景討伐の軍を起こした。信長の上洛命令を無視し続けている義景を討つためである。

 25日には若狭から越前に進み、敦賀の朝倉方支城である天筒山(てづつやま)城を難なく落とし、さらに翌二六日には金ヶ崎(かねがさき)城を攻め落とし、木ノ芽峠を越えはじめた。木ノ芽峠を越えれば、朝倉氏の本拠一乗谷はすぐそこである。

 ところが27日、信長にとって全く予期しないことが起こった。信長が自分の妹お市の方を嫁がせ、同盟を結んでいた北近江の戦国大名、浅井(あざい)長政が反旗を翻したという情報が入ったのである。

 ちなみに、このとき、お市が夫長政の謀反を兄信長に伝えるため、両端をひもでしばった小豆の袋を陣中見舞いとして送り、それに信長が「袋のネズミだ」と気がついたというエピソードが伝えられているが、どうも創作された話のように思われる。

 近江の浅井長政が朝倉義景と組んだわけで、信長は完全に退路を断たれた。絶体絶命のピンチである。このような場合、ふつうの武将ならばそのまま突っこんでいくことが多い。

 背後の浅井勢に備えて若干の兵を残し、本隊は目の前の敵、朝倉勢に突撃していくものと思われる。

 しかし、信長は違っていた。即刻、撤退を決めているのである。

 信長としては、「こんなところで挟み撃ちにあうのはご免だ」という思いと、自分の目標である「天下布武」の実現のために、「こんなところで死ぬわけにはいかない」という強い信念があったのであろう。

 戦国時代、武将たちの意識の中には、勝つも負けるも時の運といった思いがあった。また、負けたら負けたで、潔く自害するのが当然と彼らは考えていた。

 例えば、周防の戦国大名、大内義隆は、家臣の陶(すえ)隆房(はるかた、晴賢)の謀反にあったとき、「弓矢を取り、戦場に入りて、切りまけ候へば、自害に及び候事、侍の本用に候」(『大内義隆記』)といって自害している。確かに潔い死に方であるが、信長は生きることに執着し、撤退を命じているのである。

 このとき信長は、木下秀吉・明智光秀・池田勝正の三人を殿(しんがり)として金ヶ崎城に残した。

その上で、琵琶湖の東岸は浅井領で通れないため、西岸朽木(くつき)越えで京都に逃げもどっている。

 なお、このときは前記の3人が殿をつとめたが、その後、池田勝正は没落し、光秀も山崎の戦いで秀吉に負けた。そのため金ヶ崎の手柄は秀吉が独り占めする形となり、「藤吉郎金ヶ崎の退(の)き口(ぐち)」として、秀吉の武功の1つに数えられている。

 それにしても、出陣のとき、京都の町衆が多数見物する中、威風堂々と出かけた信長が、帰ってきてみれば、従う者はわずか10人というありさまで、ふつうに考えれば、みっともないことこの上ない。しかし、このときの勇気ある撤退が、その後の信長の躍進につながったことも事実である。

 時には撤退を選ぶのも危機管理策の1つとしてカウントしてよいのではなかろうか。

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