NHK大河「麒麟がくる」でも登場 織田信長の意外な真骨頂、“情報戦”と“危機回避能力”とは時代考証担当の研究者が解説(3/4 ページ)

» 2020年03月21日 09時00分 公開
[小和田哲男ITmedia]
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難攻不落の城を落とした「謎のウラ工作」

 織田信長の一番くわしい伝記である『信長公記』に負け戦のことが書かれていないので、「信長は一生勝ちっぱなしだった」と思っている人が多い。だが、もちろん間違いである。

 実は信長は何度も負けている。『信長公記』の著者太田牛一は信長の家臣で、自分の主人の経歴のキズになる負け戦のことは書けなかったのである。

 太田牛一がカットした信長の負け戦の1つが永禄九(1566)年閏(うるう)8月8日の河野島(かわのじま)の戦いである。

 この戦いは、美濃の斎藤龍興軍と信長軍の戦いで、龍興の重臣である氏家直元ら4人が甲斐(かい)武田氏の関係者に送った書状(「平井家文書」『山梨県史』資料編四)にくわしく記されており、「信長軍が多数溺死(できし)した」とある。

 斎藤方の戦勝報告なので、多少は割り引いてみなければならないにしても、信長側の敗北だったことは間違いない。信長にとっては危機的状況だったはずである。

 実はこのとき信長は、永禄三(1560)年5月19日の桶狭間の戦いで今川義元を倒し、美濃に駒を進めたものの、斎藤義龍の死後、家督をついだ龍興を攻めあぐねていたのである。

 かろうじて、木下藤吉郎秀吉の調略によって松倉城(岐阜県各務原市)の坪内利定が織田方に寝返り、今度はこの坪内利定を嚮導(きょうどう)役として木曾川筋の斎藤方部将に懐柔工作をはじめ、近くの鵜沼(うぬま)城や猿啄(さるばみ)城などが織田方となっている。

 ちなみに、このとき、信長から坪内利定に知行安堵(あんど)状が出されているが、その副状(そえじょう)を出しているのが秀吉である。永禄八年11月2日付のこの文書が、秀吉の名前がたしかな史料にみえる最初だ。

 河野島の戦いの敗北を受け、信長は力攻めで斎藤龍興を倒すのはむずかしいと考えたものと思われる。もちろん、前田利家ら槍働き隊に攻撃の手をゆるめさせたわけではないが、力攻め以外の手を併用しはじめた。それが龍興家臣への内応工作である。

 どういうわけか、『信長公記』にはそのとき進められたはずの内応工作のいきさつが書かれていないので、誰が担当したのか、具体的にどのように進められたかは分からない。

 突然、「八月朔日、美濃三人衆、稲葉伊豫守・氏家卜全・安藤伊賀守申合せ候て、信長公へ御身方に参るべきの間、人質を御請取り候へと申越し候」と記されているのみである。

 『信長公記』には年が書かれていないが、この文章の続きからこれが永禄一〇(1567)年のことであることが分かる。

 この美濃三人衆、すなわち、稲葉良通・氏家直元(卜全)・安藤守就の3人の寝返りを受け、信長は同年8月15日、難攻不落といわれた稲葉山城を落とすことに成功するのである。流れから推して、内応工作を進めたのは秀吉だったと思われる。

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