本記事は、書籍『戦国名将の本質 明智光秀謀反の真相に見るリーダーの条件』(著・小和田哲男、毎日新聞出版)の中から一部抜粋し、転載したものです。テーマは今回のNHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも意外な人物像で登場した織田信長。ビジネスにも通じる彼の情報戦や危機回避の能力について、同ドラマの考証や「歴史秘話ヒストリア」などの解説も務めた戦国時代史研究の第一人者である筆者が迫ります。
織田信長が今川義元を討った永禄三(1560)年5月19日の桶狭間の戦いは、よく知られているように、信長の家臣服部小平太がまず義元に槍(やり)をつけ、二番手に飛びこんでいった毛利新介が義元の首を取っている。
このような場合、いわゆる一番手柄は服部小平太か毛利新介のどちらかというのが一般的であろう。翌日の論功行賞の場に居並んだ信長家臣も、「信長様は2人のどちらを一番手柄とするだろうか」と興味津々だったと思われる。
ところが、論功行賞の場で、信長がまっ先に名前を呼んだのは簗田(やなだ)政綱という部将だった。簗田政綱が前日の桶狭間の戦いで、服部小平太や毛利新介と同じような目立った働きをしていれば、誰も驚かなかったと思われるが、5月19日、簗田政綱は誰の目にもとまらなかったので、皆驚いた。
桶狭間において、簗田政綱は隠密行動をとっていた。
簗田政綱は受領名出羽守を名乗っているので、いっぱしの「信長家臣」と思われるかもしれないが、実際は、尾張と三河国境近くの沓掛(くつかけ)の土豪、つまり地侍だった。地侍とはふだんは農業に従事し、「いざ戦い」というときだけ、武装して従軍してくる半農半士の兵農未分離の侍のことである。
この簗田政綱の住む沓掛にある沓掛城に今川義元が入った。今川軍は2万5000という大軍で、5月19日早朝、出陣している。その様子を観察し、信長に情報として届けたのが簗田政綱だったのだ。各種史料を総合すると、情報のポイントは3つあったと思われる。
1.今川軍2万5000は2つに分かれ、2万は鳴海城方面に向かい、義元本隊は5000で大高城方面に向かっている。
2.出発地点の沓掛城と義元本隊の目的地のちょうど中間地点に桶狭間というところがあり、そこで昼食休憩をとるのではないか。
3.この日、義元は馬ではなく塗輿(ぬりこし)に乗って出陣している。
信長は、政綱からの情報を得て、桶狭間で休憩している義元に奇襲をかけるという作戦を考え、しかも、「輿のあるところに集中攻撃をかけろ」という命令を出した。その命令を受けて活躍した服部小平太や毛利新介よりも、作戦そのものを考え出すヒントになる情報を届けた簗田政綱の方が手柄は上だと、信長は考えたのだ。
それまで手柄といえば、「槍働き」という言葉があるように、実際の戦いで武勲をあげることが何よりも重要であった。信長はそうした「武功」よりも、「情報」の方が上だと判断したことになる。
ふつうに考えると、敵が2万5000で、味方がせいぜい4000ほどだと太刀打ちはできない。だが信長は簗田政綱の情報によって、その絶体絶命の危機を乗り切った。
信長はこの後も、情報を重視した戦いを継続している。
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