「一期一会」という言葉は、「一期に一度の参会」という言葉を凝縮することで生まれた言葉です。そして、「一期に一度の参会」という言葉は、千利休が「一座建立」という初心者に向けての教えに不満を持っていたという文脈で使われています。
「一期に一度の参会」という言葉は、『山上宗二記』という茶書に記されています。筆者の山上宗二は、利休と同時代の茶人です。この時代の堺では、茶の湯は盛んに行われていました。仕事が始まる前の朝会、終わってからの夕会がかなり頻繁に催されています。今日(こんにち)でいう朝食会的な意味もあたったかと思います。
「そもそも、朝や夕方、会合の間に行われるような会であっても、新しい道具を披露する場合、または口切りの会は言うまでもなく、いつもの茶の湯であっても、路地に入ってから出るまで、一生に一度だけ参加する会であるかのように、亭主に深く心をそそいで、畏敬の念をもって接するべきである」と利休が伝えたと『山上宗二記』には記されています。
つまり、「道具披露や、夏の間保管しておいた新茶を初めて使うというまれに催される会ならば、改まった会という意識を持てる。これに対して、常の会では、改まった気持ちを維持しにくいが、一生に一度の心がけで参加すべきだ」との見解を利休が示したというのです。
「一座建立」という言葉は、世阿弥の『風姿花伝』では、「この芸とは、衆人愛敬をもて、一座建立の寿福とせり」と使われています。観客から愛されることに演劇集団である能楽は一座の運営の浮沈がかかっている、という意味ですから、茶会に当てはめれば、お客様が喜べば亭主は何をしても良い、と「一座建立」の教えを実践する亭主もいたのかもしれません。
ただし、金春宗家相伝の秘伝書であった『風姿花伝』が世に知られたのは20世紀に入ってからであることを厳密に考えれば、『山上宗二記』の解釈に、『風姿花伝』を援用してよいのか、迷うところです。そこで、「一座建立」の項目では、同時代の茶書の客の心得から意味を考えてみました。
茶会も、参加者によって評価されるという点では、能楽と共通することがあります。その点では、『風姿花伝』を参照することは一定の妥当性があると考えます。
ただし、茶会の参加者は、客といっても、一方的に演能を見ている存在ではありません。自分たちの行動も茶会の一部を構成するところが、演劇とは異なります。現代風にいえば、会議において招かれた出席者であっても単なる観客では済まされず、出席者の発言も会議を構成する重要な要素であるのと同じことです。
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