宋代の禅僧・円悟は、「看脚下」と答えています。兄弟弟子二人と師匠について夜道を歩いている際、「あかりが消えてしまった時には、どうするのか」と問われた時の答えです。この文脈では、円悟の答えは、真っ暗で危ないから、つまずかないように足元をよく見て歩きましょう、という意味に受け止められてきました。
二人の兄弟弟子の答えは、直訳すれば、「五色の羽を持つ鳳凰が、真っ赤な空に悠然と舞っている」とか、「鉄でできた蛇が荒れ果てた道に横たわっている」とか、禅の世界に詳しい人から見れば、深い含蓄にあふれたものなのかもしれませんが、素人から見ればまったくどう行動すればよいか手掛かりのない答えです。
「脚下を看よ」と言われたら、誰でも目を足元に向けます。この円悟の答えに、師匠は感心します。夜道であかりが消えてしまうというのは、緊急事態です。緊急事態においては、高邁(こうまい)な理想論よりも、その場ですぐに行動に移せる具体的な提案が評価されたと考えてみたいと思います。
後代の禅僧である覚明は、これらの有名な問答を熟知した上で、「照顧脚下」と答えたと考えられます。「看護」と使われるように、「看る」の字の意味も「注意して見る」ということです。
注意して見るという意味は同じでも、普段とは違った言葉の方が、そこに込められた意味をあらためて考えやすいものです。この観点から、「看脚下」よりも「照顧脚下」とした方が、「見るということは、漠然と見るのではなく、自分がしっかり見ることだ」というとニュアンスが伝わりやすいと言えます。覚明の意図は、そこにあったのではないでしょうか。
さらに、「脚下照顧」と語順が変わるとそれぞれの言葉が強調されます。あえてくだけた形に現代語訳するなら、「足元を、よーくよーく見るんだぞ」という感じでしょうか。
このように、「脚下照顧」の教えは禅の世界で、意味を強調しつつ伝えられ続けました。その教えの核心は、問題を自分事として受け止め、具体的に行動可能な対応策を提言することです。
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