西武と小田急が激突「箱根山戦争」も今は昔――小田急車両が西武を走る光景に見る、時代の転換(4/4 ページ)

» 2025年05月29日 09時42分 公開
[森川天喜ITmedia]
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雪解けからの連携、今も残る課題

 このような泥沼の争いは、小田急側の秘策の実行により沈静化に向かった。バスの進入を阻止された有料道路と並行して、ロープウェイ(早雲山―大涌谷―桃源台)を建設する作戦に出たのだ。陸がダメなら空を行けばいいというわけだ。このロープウェイは1960(昭和35)年9月に開業。これにより小田急系の交通機関だけで箱根を周遊できるようになった。また、西武系の有料道路は1961(昭和36)年に湖畔線(湖尻−元箱根)と早雲山線の2路線が神奈川県道として開放された。結局、長い争いの末に得たものは、小田急側のほうがはるかに大きかったといえる。

ロープウェイの建設で、「箱根山戦争」は沈静化に向かった(筆者撮影)

 そして、この間に五島が1959(昭和34)年8月に病没。堤は五島の葬儀に出席せず「相手が死のうと葬式が出ようと、このわしの憎しみを打ち消すわけにはいかない。心にもないことをしたら、むこうだって決して愉快じゃあるまい」(『新潮45』2006年6月)と言い放っている。その堤も5年後の1964(昭和39)年4月、心筋梗塞により急逝した。

 「戦争」が最終的に終結したのは1968(昭和43)年のこと。五島の長男で東急電鉄を継いだ五島昇が、その前年、東名高速道路の開通に向けて東名沿線の私鉄12社を集め、東名急行バス会社を設立。その高速バス路線の調整に当たり、「まずは西武と小田急のシコリを解くことが必要」であるとし、康次郎の三男で当時、伊豆箱根鉄道社長などを務めていた堤義明と小田急の安藤社長を銀座東急ホテルに招き、和平をあっせんしたのだ。

 その後の雪解けは急速に進み、両者は会談を重ね、1968(昭和43)年12月に東京プリンスホテルで箱根登山の柴田吟三社長、東海自動車の鈴木幸夫社長を加えた4社長が会合し、今後は箱根のバス路線の相互乗り入れについて協調することを確認。協定書に調印し、約20年続いた箱根山戦争がついに終結を見た。

 2000年代に入ると、小田急側からの事業提携申し入れを機に、両グループの連携は急速に進む。背景には1991年の年間2200万人をピークに箱根の観光客数が減少傾向にあったことがある。2004年4月に小田急箱根高速バスが西武系の施設である箱根園に乗り入れたのを皮切りに、小田急系の「箱根フリーパス」提示による西武系施設での割引実施、バス停名やバス路線系統のナンバリングの統一などが進められた。最近では2015年の大涌谷噴火によるロープウェイ不通時や、2019年の台風被害による箱根登山鉄道不通時の代替バス運行に、伊豆箱根バスが一役買ったのは記憶に新しい。

 このような経緯を踏まえると、西武の線路を小田急や東急の車両が走るのは、非常に感慨深い。しかし、箱根に目を向けると箱根観光の長年の課題であるフリーパスの統合問題はいまだに解決しておらず、今も、小田急の「箱根フリーパス」では伊豆箱根バスに乗車できず、逆に伊豆箱根のフリーパスも小田急系列に対応していない不便さが残っている。ユーザー目線で見れば、今後はこうしたサービス面の連携も、一段と進めてほしい。

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