西武と小田急が激突「箱根山戦争」も今は昔――小田急車両が西武を走る光景に見る、時代の転換(3/4 ページ)

» 2025年05月29日 09時42分 公開
[森川天喜ITmedia]

西武による“小田急乗っ取り”の画策も

 堤は五島より7歳年下だったが、実業界においては先輩であり、箱根に先に地盤を築いたのも堤だった。堤の自叙伝『苦闘三十年』(三康文化研究所刊)によれば、「五島慶太君を箱根につれてきたのは私である」という。具体的な経緯は次の通りだ。

 箱根登山鉄道(現・小田急箱根)はもともと、小田原電気鉄道という小資本の会社だったが、関東大震災の被災などで経営難に陥る。これを救済したのが関西に拠点を持つ日本電力だった。同社は小田原電鉄を合併後、間もなく電力部門だけを残し、鉄道部門は別会社として出資・独立させた。これが箱根登山鉄道である。その後、戦時中に電力事業は国家統制の対象となり、日本電力も日本発送電という半官半民の特殊企業に吸収され、箱根登山鉄道を手放すことになった。

 そこで、その譲渡先として堤に声がかかったのだが、もし箱根登山鉄道が堤の傘下に入れば「ほとんど箱根の交通を一人で持つようなことになる。これは大衆におもしろからぬ印象を与える」とし、堤は五島を推薦した。こうして箱根登山鉄道は東急の傘下に入る。この話からも分かるように、当初、堤と五島の関係は良好だった。ところが五島が登山鉄道と一緒に取得した旧・日本電力系の強羅ホテルを、戦後すぐに国際興業創業者の小佐野賢治に売却したことから、2人の間に溝ができる。「一緒に箱根の観光に投資しようと言ったのに約束が違う」と堤がへそを曲げたのだ。

 とはいえ、戦後、東急(戦時統制下で東急・小田急・京王・京急が合同した“大東急”)から独立した小田急の傘下に入った箱根登山鉄道は、東側から箱根山へ登るルート、一方、西武系の駿豆鉄道は熱海・三島方面、つまり西側から登るルートを押さえてすみ分けができており、当初は両者がぶつかることはなかった。ではなぜ「戦争」になったのか。それはやはり、両者ともに自系列の交通手段だけで箱根を制覇したかったからだ。

かつては「箱根山戦争」の舞台となった芦ノ湖の湖上を行く小田急系列の海賊船(筆者撮影)

 先に動いたのは西武系の駿豆鉄道で、1947(昭和22)年9月、それまで小田急系の箱根登山バス(当時は箱根登山鉄道のバス部門)が独占運行してきた小涌谷―小田原間へのバス乗り入れ免許を申請した。これが認められれば、西武は熱海・三島から箱根を経由して小田原まで、自社系バスのみによる一貫輸送が実現し、さらに当時すでに傘下に収めていた駿豆鉄道の大雄山線(小田原―大雄山)までを結ぶことができる。だが、同路線は箱根登山にとっては「生命線ともいうべきもの」(『箱根登山鉄道のあゆみ』箱根登山鉄道編)であり、他社バスの乗り入れは、受け入れがたいものだった。

 箱根登山はこれに対抗して、駿豆の有料道路・早雲山線(小涌谷−早雲山−大涌谷−湖尻)への自社バスの乗り入れを申請。受理されれば、登山電車、ケーブルカー、バス、遊覧船を乗り継いで、小田急系の乗り物のみでの箱根周遊が可能になる。だが、この有料道路は「巨費を投じ、二十八キロに及ぶ私有道路を、十三年間もかかって苦心して私(堤)が建設した」(『苦闘三十年』)もの。法令上は一般自動車道とはいえ堤の心情としては私有道路に等しく、「免許証一本で、権利を半分とられてしまうなど無理無体」と怒りに火が付いた。

 その後、それまで西武系が独占していた芦ノ湖の遊覧船事業に小田急系資本の箱根観光船が進出。大型船を就航させると、それへの対抗措置として、駿豆が有料道路・早雲山線の入口に遮断機を設置し、箱根登山バス乗り入れを実力で阻止するという事件が発生。争いは法廷へ持ち込まれるとともに、兜町へも飛び火。西武が小田急株を買い進め、1957(昭和32)年6月頃までに127万株を取得。一時は「西武による小田急乗っ取りが現実味を帯びた」とまで囁かれ、時の運輸大臣が調停に乗り出す事態となった。

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