音楽家出身のフリーマンCEOがブルーボトルコーヒーのビジネスで成功した理由:「全力疾走」という病(2/6 ページ)
2002年に米国西海岸で創業したブルーボトルコーヒーは、国内で着実に店舗拡大するとともにブランド力を高め、2015年2月には初の海外出店として日本に進出を果たした。創業者であるジェームス・フリーマンCEOは元クラリネット奏者のアーティストだ。そんな彼がブルーボトルコーヒーで“表現”したいこととは――。
クラリネット奏者から転身したわけ
「私のフォーカスは常に小さいディテールにあります」
日本人ばかりの店内でひときわ目立つ大きな体のフリーマンのこだわりは、より小さなものへと向かっている。「大きなことをやろうとしても、小さなことができていないと何も始まらないから」だという。一般論で言えば、経営者とは長期的なビジョンや大きな目標を持っているものだが、フリーマンはそういったものにもあまり興味がない。経営者らしからぬ経営者なのは、ブルーボトルコーヒーを創業する前の彼の仕事と無関係ではない。
フリーマンは12歳のころから20年間、クラリネット奏者として音楽の道を歩んできた。彼の繊細な感覚は、芸術性の高い音楽に触れることで養われていった。なぜ彼はクラリネット奏者から起業家に転身し、コーヒーの世界に身を投じたのだろうか。
「1997年から98年ごろのことです。私は3つのオーケストラを掛け持ちしていました。当時、イギリスの作曲家、グスターヴ・ホルストの『The Planets』という曲が人気で、どのオーケストラでもそれをやっていました。でも私はその曲が大嫌いでした。クラシックなのに騒がしい曲で。好きでもない曲をやるのがストレスで、リハーサルに行くのもイヤになっていました。今でもクラシックは好きだけど、好きでもない曲に人生をかけてやり続けることに疑問を感じ始めていました」
音楽家としての岐路に立ったフリーマンは、音楽系サイトの運営会社に一度は勤めたが、会社が買収されたことに伴う人員整理により、半年ほどで職を失った。しかしそのリストラは、フリーマンの新しい人生が始まる合図だったのだ。フリーマンがコーヒーで事業を始めたのは、その翌年の2002年のことだった。
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