競合ゲーム機「PSP」の脅威が任天堂社内を変えた:新連載・任天堂Wii 開発回顧録 〜岩田社長と歩んだ8年間〜(1/4 ページ)
「Wiiのプレゼンテーションを最も多く経験した男」。任天堂の岩田元社長からもそう評された玉樹さん。本連載では、Wiiの開発担当者として、いかに商品を生み出し、世に広めていったか、そのプロジェクトのリアルをお伝えします。
「Wiiのプレゼンテーションを最も多く経験した男」――。
自分自身のことをこう紹介するのは後ろめたさもありますが、おそらく事実です。私は2001年にプログラマーとして任天堂に入社し、プランナーに転身後、据え置き型ゲーム機「Wii」の企画担当として初期のコンセプトワークから、ハードウェア、ソフトウェア、ネットワークサービスの企画および開発すべてに横断的にかかわり、岩田聡さん(前任天堂社長)ともお仕事をご一緒させていただく機会を得ました。
Wiiは2006年12月に発売してから60週間で全世界での累計販売台数2000万台を突破しました。その後、2015年12月末までの累計販売台数は1億台に上るなど、任天堂史上でも記録的な売り上げを樹立しました。どうしてここまで多くの消費者に支持を得たのでしょうか。
任天堂がWiiを発売する2年前。「ゲーム人口の拡大」という言葉を岩田さんが発信し始めたのは、2004年のことでした。この言葉には「年齢・性別・ゲーム経験の有無にかかわらず誰にでも楽しめる」という補足が付いていて、これだけを見ると「単純にユーザを増やして利益を上げるための施策」と読めなくもありませんが、もちろん違います。
上述したようにWiiは全世界で1億台以上を出荷し成功を収めますが、ゲーム人口の拡大という言葉は売り上げのみならず、もっと大切な意味を持っています。この言葉がなければ、Wiiを企画することも、開発することも、運用していくこともできませんでした。
任天堂はWiiによって、どんな未来を作ろうとしていたのか。Wiiはどんな思いから生まれたのでしょうか。このストーリーは、ごく私的な体験に基づく岩田さんと私の回顧録です。
まずは当時の私個人の状況からスタートします。
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