競合ゲーム機「PSP」の脅威が任天堂社内を変えた:新連載・任天堂Wii 開発回顧録 〜岩田社長と歩んだ8年間〜(2/4 ページ)
「Wiiのプレゼンテーションを最も多く経験した男」。任天堂の岩田元社長からもそう評された玉樹さん。本連載では、Wiiの開発担当者として、いかに商品を生み出し、世に広めていったか、そのプロジェクトのリアルをお伝えします。
矛盾を抱えて任天堂に
私は青森県八戸市、貧乏な家に長男として生まれました。小学校3年生で両親が離婚し、父方の実家に引き取られ、父や祖父母に育てられました。特に祖母には本当に優しく育てられました。いつか祖母に恩返しをしたいという個人的な願いを抱えながらも、任天堂に就職し、八戸から遠く離れた京都で働く日々を過ごしていました。
そもそも、祖母は公務員か銀行員を望んでいたにもかかわらず、ゲームが作りたいという理由で東京工業大学工学部に進学していたので(奇しくも岩田さんと同じです)、そのころから悩みはくすぶり続けていました。
ゲームと任天堂が好き、でも、このままでは祖母には恩返しできない。この矛盾は、至るところで顔を出します。例えば、任天堂入社時、同期に対して「この会社で自分は何をしたいか」を語る機会がありました。そこで僕は「祖母に楽しんでもらえる何かを作りたい」と宣言しましたが、リアクションは大きく分かれます。
それはいいねと微笑んでくれる同期と、表情を作らずにいる同期。きっと内面では「ゲームは若い人が遊ぶもの、年寄りにゲームは厳しい」と冷静に判断をしていたのだと思います。ゲーマーとしての自分は彼らに共感しますが、個人としての自分が「どうして分かってくれないんだよ!」と心の中で叫んでいます。自分自身の矛盾を感じつつも、どうすることもできません。
そんな状況で後にWiiとなる次世代ゲーム機の企画に携わるわけですが、当然うまくいくはずがありません。これまでのゲーム業界の流れに沿った若い人向けの高性能なゲーム機を作らなければ売り上げは伸びない。他方で、そんなこととは関係なく、祖母に恩返ししたい。そんな別々な考えを持っていても、走ることはおろか前に進むことすらできません。しかしある日、明確に思いが定まる出来事が起きたのです。
ソニー・コンピュータエンタテインメント(SCE)の久夛良木健社長(当時)による携帯型ゲーム機「PSP」の発表です。日本で初お披露目となった2004年7月のことでした。キラキラ光るきれいなディスクを掲げる久夛良木さんの笑顔に、私は心の底から恐怖しました。既にSCEの「PlayStation2(PS2)」によってテレビゲーム機市場で大きくシェアを奪われている中、当時「ゲームボーイアドバンス」の主戦場だった携帯ゲーム機のシェアまで奪われてしまったら、任天堂はどうなってしまうのか。私自身、食べていけなくなるのではないか。
今になって思い返すと明確なのですが、当時の私は要するに「ぬるま湯の中にいた」のです。「次世代機の企画を考えねばならぬ!」と真剣に悩んでいるようで、実は「自分の仕事とは関係なく会社は存続して、サラリーをもらい続けて生活できる」と勝手に決めつけ、安心していたのです。そんな幻想を久夛良木さんにたたき壊してもらえたことは、今となっては幸運としか言いようがありません。
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