連載
どうやってWiiのコンセプトを広く伝えていったのか?:任天堂Wii 開発回顧録 〜岩田社長と歩んだ8年間〜(3/6 ページ)
「ゲーム人口の拡大」という任天堂・岩田社長の言葉の下で、徐々に「Wii」のコンセプトが形作られました。しかしそれは当時のゲーム市場においてあまりにも斬新だったため、そのコンセプトを社内、そして社外へと伝えていくのに悪戦苦闘したのです。
岩田さんは常々、「ゲームは生活必需品ではない」という話をされていました。生きるために絶対使わなくてはいけない生活必需品なら、たとえそれが分かりにくくても、嫌な体験を伴うとしても、それを買う。一方、ゲームは生活必需品ではないから、分かりやすく、楽しい体験でなければならない。説明書を読まないお客さんでも楽しめなければ、ゲームではない。
煎じ詰めれば、ゲームとは「体験のデザイン」です。その体験は時間の経過に沿うように一本の線でつながっていて、その線の先を常に私たち人間は意識しています。「次に何をすれば良いか」「次に何が起こるか」という予想と現実化を繰り返しながら、ゲームは進みます。いわば、その小さな予言の成就を繰り返しながら、ユーザーの心の中に豊かな感情を生み出し、情報を伝えることこそが、ゲームの本質である。そう考えると、すべてがつながりました。
プレゼンとゲームは、同じことをしているのです。両方とも、体験を提供しているのです。
「だからか!」と僕は膝を打ちました。なぜ任天堂社内にはプレゼンのうまい人が多いのか。なぜなら、任天堂にはゲームのノウハウが満ちているから、それが理由です。
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