全員が「同じ月」を見て、「お母さんに嫌われない」ゲーム機を開発した:任天堂Wii 開発回顧録 〜岩田社長と歩んだ8年間〜(3/3 ページ)
「Wii」のコンセプトが定まり、何度も社内でプレゼンテーションすることで、周囲からの理解を得られました。今回はWiiの開発と全仕様の決定へと話が進んでいきます。
同じ月を見ている
私はよく「同じ月を見ている」という表現をするのですが、コンセプトが十分に理解されると、組織のあちこちから「これは自分が考えそうなことだ!」と驚いてしまうようなアイデアがどんどん出てくるようになるのです。私も同僚も、同じコンセプトを目指し、それを見上げながら仕事をしているからこそ、同僚のアイデアに私自身が100%共感できるのです。
同じ感覚は、岩田さんも持たれていたようです。社長という立場は、言い換えれば「すべてに責任を負わなければいけないのに、すべてを社員という他人に任せて、実行してもらわなければいけない人」です。だからこそ、懸命にコンセプトを訴え、社員を励まし続けたのだと思います。岩田さんは何度も「いやー、すごいなぁ……」「面白いなぁ……」という言葉を現場で発し、破顔していました。その言葉は、良いものを見てただ喜んでいるだけではなく、会社の戦略や商品のコンセプトという、抽象的な部分で深く共感するアイデアを見て、自分自身とプロダクトの間の強いつながりのようなものを感じていたからだと思うのです。
社長である岩田さんが社員にインタビューする「社長が訊く」シリーズで、Wiiのシリーズのまとめの回にこんな発言があります(関連リンク)。Wiiのプロジェクトは「想像もできない紆余曲折があった」。しかし、「もう一回時計を巻き戻しても同じものを作るだろうと、胸を張って言える」。コンセプトを考え抜き、確信し、共有できたからこそ、このような心理にたどり着いたのだ思います。
ちなみに、時間を巻き戻しても自分は同じことをするだろうかという問いは、自分自身がどの程度検討を進め、結果に確信を持っているかどうかの良い指標になると考えています。私個人としても、自分で考えた企画案を自分で評価するときには、この「時間を巻き戻しても、同じことを考えるか?」という評価軸を大切にしています。
岩田さんはこうも言っていました。「コミュニケーションがうまくいかないときに、絶対に人のせいにしない、ということに決めた」。チームの仲間が出してくるアイデアが「良くない」と思えるときは、仲間の企画力が問題ではなく、コンセプトが共有できていないことが問題ではないかと仮説を立てるようにしています。そこでコンセプトを共有すべく、プレゼンなり議論なりを自分から働きかけることにしています。
ときにはコンセプトを繰り返し語ることで、ときにはコンセプトから導かれた論理的帰結としての仕様案を伝えることで、岩田さんはさまざまな形で、何度も何度も社員の心に問い掛けながら、同じ月を見る社員を増やそうとしていたのだろうかと、今になって思い返します。
全仕様が定まり、Wiiは世に出ることになりました。最終回となる次回はWii発売後の取り組みについてお話したいと思います。
著者プロフィール
玉樹真一郎(たまき しんいちろう)
わかる事務所 代表
1977年生まれ。東京工業大学・北陸先端科学技術大学院大学卒。プログラマーとして任天堂に就職後、プランナーに転身。全世界で1億台を出荷した「Wii」の企画担当として、最も初期のコンセプトワークから、ハードウェア・ソフトウェア・ネットワークサービスの企画・開発すべてに横断的に関わり「Wiiのエバンジェリスト(伝道師)」「Wiiのプレゼンを最も数多くした男」と呼ばれる。
2010年任天堂を退社。青森県八戸市にUターンして独立・起業。「わかる事務所」を設立。コンサルティング、ウェブサービスやアプリケーションの開発、講演やセミナー等を行いながら、人材育成・地域活性化にも取り組んでいる。
2011年5月より特定非営利活動法人プラットフォームあおもり理事。2014年4月より八戸学院大学ビジネス学部・特任教授。
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