衰退一途の今治タオルが息を吹き返した“大事件”:伝統産業の復活劇(4/5 ページ)
愛媛・今治の地で100年以上前から続くタオル産業。長らく日本有数の産地として発展を遂げたが、1990年代に入ると中国産の安い製品に取って代わられるなど、生産量が激減した。そこからどのような復活劇を遂げたのだろうか――。
潮目が変わった瞬間
その潮目が変わったのが、プロジェクト3〜4年目ごろだという。2007年に東京・伊勢丹新宿店での今治タオルの常設販売を開始するなど、プロモーション活動に注力。徐々に今治タオルのブランド認知度が広まり、例えば、近藤氏が県外に営業に行くと今治タオルという言葉が相手の方から自然と出てくるようになった。「確かに風向きが変わってきた。これはいけるのではないか」。近藤氏などそれまで積極的ではなかったメンバーも意識が変わり始めていた。
そして2010年、十数年にわたって減少し続けていた生産量がプラスに転じる。対前年比でわずか0.2%増だが、着実な成長を手応えとして感じた。「これはわれわれにとって大事件でした。まさか回復するとは思っていなかったので。夢物語ですよ」と近藤氏は力を込める。
補助金に頼るのではなく、自分たちの力で継続的に収益を生み出せるようになった。この成果によって、本当の意味で工業組合のメンバーたちは今治タオルブランドのために皆で1つの方向に向かい始めたのである。ただし、その目的は人それぞれだ。ブランドマークを製品に付けて価値を上げ、売り上げを伸ばすことに意義を感じる人もいれば、近藤氏のように今治というタオルの産地が永続的に残ることを目指して、ブランディング活動に参加する人もいる。
けれども、重要なのは1社だけが成功しても意味がないということだ。なぜなら今治タオルは、タオルを織る会社、加工する会社、商品を企画する会社など、多くの会社の分業によって成り立っているからだ。「1社が頑張ったところで収益などしれている。産業全体で取り組み、ブランドを向上させなくてはならないのです」と近藤氏は述べる。
その後、今治タオルは躍進する。販路も拡大し、2012年には東京にアンテナショップ「今治タオル 南青山店」をオープン、そして2017年4月には今治市内にある「今治タオル本店」をリニューアルし、バスタオルやハンカチタオル、バスローブをはじめ約400種類、2万点以上の商品を取りそろえる。また、今治タオルの製造方法や機能性などを体感できる「今治タオルLAB」を本店の隣に新設した。県内外、さらには海外から多くの顧客がここにやって来ることを地元関係者は期待を寄せる。
今後は今治タオルというブランドの傘を飛び出して、地元のメーカー1社1社が切磋琢磨しながらそれぞれの強みを打ち出していければとする。そうすればもっと今治タオルの産業自体が大きくなり、持続可能なものになるという考えからだ。
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