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NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で話題 明智光秀が敗死しなければ「明智幕府」は誕生していたか?征夷大将軍になり損ねた男たち【後編】(2/2 ページ)

織田信長、豊臣秀吉、明智光秀……。武家の最高位「征夷大将軍」の座を逃した歴史人物に学ぶ組織に生きる現代人に役立つ教訓をお届けする。第3回目は大河ドラマの主人公である明智光秀を取り上げ、「三日天下」で終わっていなければ将軍に就いていた可能性を探る。

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本能寺の後の行動が運命を左右した光秀

 平安以来何度も支配者の交替を経験してきた京都の人々は、光秀の想像を超えてはるかに慎重であった。光秀の京都支配が、かりにもう1カ月も続いたなら、天下の形勢は有利に動いたかもしれない。時の権力者に媚(こ)びを売る勢力や大衆の動きも現れたであろう。

 そして好運が得られれば光秀の将軍宣下、明智幕府の出現があり得たかもしれない。その意味からすれば、光秀も「征夷大将軍になり損ねた男」であったといえよう。

 けれども光秀は勝ち運に恵まれなかった。計算外の速さで秀吉が備中高松から引き返してきたからである。しかも、光秀軍の2倍半にあたる約4万の大軍を従えて。そのため光秀は全軍を集結させる余裕もないままに山崎で秀吉軍と戦って壊滅し、敗走の途中、小栗栖で落ち武者を襲う野伏の竹槍に突かれて自刃した。6月13日のことである。

 光秀は、勝ち運に乗った秀吉に敗れた。しかし運というものは実力があってこそ恵まれる。実力闘争の戦国乱世、世論をひきつけるのは個人の力量であり、実力があればこそ大義名分もまかり通り、世間もまたこれを認めるのである。

著者プロフィール

二木謙一(ふたき・けんいち)

1940年東京都生まれ。國學院大學大学院文学研究科博士課程修了。文学博士。専門は有職故実・日本中世史。國學院大學教授・文学部長、豊島岡女子学園中学高等学校校長・理事長を歴任。1985年『中世武家儀礼の研究』(吉川弘文館)でサントリー学芸賞(思想・歴史部門)を受賞。NHK大河ドラマの風俗・時代考証は「花の乱」から「軍師 官兵衛」まで14作品を担当。主な著書に『関ヶ原合戦』(中公新書)、『徳川家康』(ちくま新書)など多数


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