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東京ラーメンストリートに初出店した熊本「天外天」 社長がこだわる「食のブランド」とはアルバイトから社長に(4/5 ページ)

2021年の話題を集めたのが「東京ラーメンストリート」の「ご当地ラーメンチャレンジ by 東京ラーメンストリート」だ。「支那そばや」の後を継ぐ第2弾として出店したのが、熊本を代表する名店「天外天」。出店に至った経緯や東京で経営する厳しさを、小田圭太郎社長に聞いた。

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自我を捨てること

――小田社長のキャリアについてもお聞きします。小田社長は2000年にアルバイトとして天外天で働き始め、13年には創業者の先代を継ぐ形で社長に就任しました。ラーメン業界で働き始めたきっかけは何だったのでしょうか。

 2000年当時は、天外天が先代のマスター1人で経営されていたんですね。それで、週末が忙しいから「週末だけでも皿洗いに来ないか」って言われたのがきっかけでした。そうして働いていくうちにいろいろのものをだんだん任されるようになって、人も増えていった感じです。

 自分はラーメンを食べるのは好きでしたけど、まさか自分が作ることになるとは思っていませんでしたね。それで8年前に先代のマスターから「あとはお前がしろ」と言って引退され、僕が2代目を継ぎました。

――当初はラーメンに強いこだわりはなかったように思いますが、これをライフワークにしようと思ったのは何が転機だったのでしょうか。

 先代から仕込みを任されるようになって、自分の作ったスープで、いろんなお客さんの反応がダイレクトに見られるようになったところですね。特に本店はカウンター10席しかありませんので、目の前でその反応が見られるわけです。

 お客さんの反応を見ていると、次はもっとおいしいラーメンを出してやろうといろいろ試行錯誤するようになったんですね。ここがスタートでした。で、「おいしかった」って言われるとやっぱりうれしいわけです。

――おいしいラーメン作りをする上で、小田社長は何が大切だと思いますか。

 自分はこういうラーメンを作りたいんだ、と自我を前に出すやり方もあると思うのですが、僕は真逆ですね。自分のラーメンの好みというより、お客さんが求めるものは何なのかをずっと意識しながら味を変えてきました。そこに自分のエッセンスを加えていければいいなと思っています。

――コロナ禍になり2年近くが経とうとしていますが、飲食の経営的に変化はありましたか。

 今までわれわれ飲食業は、どちらかといえばお客さんを「待つ」商売をやっていたと思います。コロナをきっかけに、こちらから売りに行く商売の形に変わったと思いますね。私は屋台ラーメンもやってみたいという自分の趣味半分で、キッチンカーを作ったりもしました。店舗で冷凍ラーメンの販売もしましたね。

――やってみていかがでしたか?

 冷凍ラーメンを売ることには自分も最初は反対だったんです。でも、天外天の本店って、サラリーマンがお酒を飲んだあとに締めとして食べにこられるようなお店なんですね。なので、お父さんがいつも締めで食べて帰ってくる天外天の味を、「家で初めて食べた」と言ってくださる奥さまの声も多くいただきました。新しいターゲットにリーチできたので、意外といい経験になりました。

 キッチンカーは路上でやると道路使用許可が必要になるので、知り合いの駐車場を借りてそこで営業するようにしていました。やっぱり家の近くまで来られると、お客さんも来てくれるんですよね。

 もちろん売り上げは店舗とは全く比べ物にならないほど低いですが、材料費と人件費分だけでも売り上げを上げれば生きてはいけますから、そこは気にしていませんでした。何よりお客さんと触れ合えるだけでよかったですね。

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