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ダイソー銀座店の広告カラーに込められた秘密 街に伝わる「銀座フィルター」とは本物しか残れない(2/3 ページ)

高級ブランド店が建ち並ぶ東京・銀座に4月15日、100円ショップ最大手、大創産業の旗艦店がオープンした。利便性が向上したと歓迎の声が上がる一方、「銀座らしくない」との意見も聞かれる。果たして、ダイソーは銀座に根を張ることができるのか。

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本物しか残らない「銀座フィルター」とは?

 大きな驚きをもって受け止められたダイソーの銀座進出だが、安価でカジュアルな商品を扱う店舗が銀座に進出するのは、今に始まったことではない。2000年代以降、ユニクロやH&M、フォーエバー21といったファストファッションのブランドが相次いで銀座に入ってきた。

 2010年に当時の松坂屋銀座店内にオープンしたフォーエバー21では「スカートを200円で売っていたこともある」と竹沢さんは振り返る。

 その後、フォーエバー21は3年後の13年に閉店。08年に銀座に出店したH&Mも、開業10年目の18年に閉店した。


2012年3月に銀座のメインストリート中央通り沿いにオープンしたユニクロ銀座店

 「銀座には、その時にすごく勢いのあるところが進出してきます。しかし、1つの波が過ぎると定着していかない側面があります」と竹沢さんは話す。

 銀座には「銀座フィルター」という言葉がある。銀座らしくないものは目に見えないフィルターに掛かり、いつしか消えるとされる不文律だ。「銀座らしくない」と思われていた店が閉店したとき、銀座の人々は「銀座フィルターが効いた」と考えるという。

 「本当に合わないお店は、お客さまに選ばれず、自分たちから出ていくと銀座では信じられています」と竹沢さんは説明する。激しい競争と、良店を見極める客の審美眼。これらのふるいに掛けられて、それでも残った店が老舗となり、今日の銀座のブランドイメージを支えている。

 一方で、銀座は歴史的にも新陳代謝が激しい街として知られる。明治政府が近代化の象徴として西洋風のレンガ街を整備した銀座は、1923(大正12)年の関東大震災で一帯が全焼。この時に半分くらいの店舗が入れ替わったという。

 その後、昭和初期に日本随一の繁華街として隆盛を極めるものの、第二次世界大戦の空襲で再び消失。この際にも、銀座に店舗を構えていた半分くらいが立ち去り、新規事業者が進出してきたという。

 いつの時代も「よそ者」ともいえる、外から入ってきた人たちが銀座に溶け込み、銀座の街を造り上げてきたことが分かる。


銀座はいつの時代も外から入ってきた人たちが街並みを造り上げてきた  

 竹沢さんはこう強調する。

 「仮に、ダイソーがこれから先100年、銀座に残って非常に銀座らしいお店になるかもしれない。銀座に新しくいらっしゃる方には全員そうあってほしい。来たからには、銀座らしい商売をして、銀座のお客さまに気に入られて、銀座らしさを形成していくお店になってほしい」

 変化を繰り返しながらも、日本を代表する街であり続けてきた銀座。その街づくりに携わる人たちは、先人から受け継いだ「銀座らしさ」や、銀座の洗練されたブランドイメージを守る役割を担っている。

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