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コース料理込みで2万4800円! エンタメの常識を覆す「没入型コンテンツ」のすごさとは廣瀬涼「エンタメビジネス研究所」(1/4 ページ)

イマ―シブ・フォート東京の新演目『真夜中の晩餐会〜Secret of Gilbert's Castle』。代金はコース料理込みで2万4800円と高額だが、実際に体験してみると従来とはまた違う「体験」があった──。

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 近年、「イマーシブ」(immersive)という言葉を耳にする機会が増えている。イマーシブとは「没入」あるいは「没入感」を意味し、映像や音響などのリアリティーあふれる演出により、まるでその世界に入り込んだかのような体験を可能にするコンテンツとして注目を集めている。

 なかでもテーマパーク業界においては、マーケティング会社「刀」が2024年3月1日、東京・お台場に完全没入型テーマパーク「イマーシブ・フォート東京」を開業し、大きな話題となっている。『ザ・シャーロック』『東京リベンジャーズ イマーシブ・エスケープ』『江戸花魁奇譚』など、イマーシブシアター形式の本格的なアトラクションを体験できる点が最大の魅力である。

 イマーシブシアターとは、2000年代にロンドンで始まった「体験型演劇作品」の総称だ。従来のように客席から舞台を鑑賞するのではなく、観客自身が物語世界に入り込み、登場人物や当事者として演出に巻き込まれることで、物語への能動的な関与を可能にする。

 今回筆者は、4月25日からスタートした新演目『真夜中の晩餐会〜Secret of Gilbert's Castle』を体験してきた。『真夜中の晩餐会』での体験は、これまでのイマ―シブ・コンテンツとは全然違う特徴がある。

 本記事では、イマーシブ・フォート東京開業時からの主要アトラクションである『ザ・シャーロック ジェームズ・モリアーティの逆襲』と比較した特徴を解説するとともに、「イマ―シブ」の本質について考えていく。

圧倒的な「放置プレイ」──『ザ・シャーロック』の魅力

 まず、これまで筆者が体験したイマ―シブシアター形式のアトラクションでの体験について振り返ってみよう。

 『ザ・シャーロック』は、建物全体を舞台として用い、登場人物が移動することで場面が切り替わる構成となっている。そのため、参加者はストーリーの流れを追いたければ、自ら登場人物の後をついていく必要がある。

 ただし、開始からラストまで、参加者に特定の行動が求められることはない。およそ1時間にわたって、19世紀ロンドンとして再現された空間の中を自由に歩き回り、「生活」していればよいのである。ここで「生活」という語をあえて用いるのは、参加者が登場人物である「ホームズ」でも「ワトソン」でもなく、犯人でも依頼主でもない、さらには警察官や酔っぱらいといったモブキャラクターですらないからだ。一部話しかけられたり、演出に巻き込まれたりするものの、その世界の住人からは見えない「アノニマス」(匿名)という設定である。

 登場人物は40人存在し、誰についていくかは完全に自由であり、誰にもつかない選択も許容されている。ドラマや映画では、主要キャラクターと交わることのない、セリフのないモブキャラクターが多数登場する。彼らもまた、物語世界においては普通に食事をし、仕事をし、眠り、生活を送っている。参加者は、まさにそのような「物語の当事者ではないただの人」として、時の流れとともに空間を過ごすことになる。事件に関与している人物と接点を持たなければ、情報は一切入ってこないのだ。

 考えてみれば、現代ではインターネットの普及により、その場にいなくともあらゆる情報が自動的に流れ込んでくる。しかし、19世紀ロンドンにおいては新聞や人づて以外に情報源は存在せず、当事者や関係者でなければ、事件の存在すら知らないままに解決されていた、という状況も十分にあり得る。自らが当事者でないという事実、すなわち物語においては「何者でもない=黒子」であるという虚無性こそが、このコンテンツを成立させている根幹でもあるのだ。


ザ・シャーロック〜ジェームズ・モリアーティの逆襲(プレスリリース)

 お金を払えば誰もが一律に同じ体験ができる――それが多くのエンターテインメントにおける常識である。しかし『ザ・シャーロック』においては、その前提が心地よく裏切られる。

 確かに料金を支払って施設に入るが、そこで求められるのは圧倒的な「自主性」。何かしろ、どこかへ行け、という具体的な指示はなく、ただ「放置される」のである。何かを強いられることもなければ、何かを与えられることもない。ただそこに身を置き、動きたければ動き、関わりたければ関わる。動かなければ、何一つ知ることなく物語は終わる。

 この体験は、筆者にとって非常に衝撃的であった。自ら動かなければ何も始まらない一方で、「何もしなくても構わない」という自由が保証されている。強い主体性と、極限まで開かれた自由度。その両方が共存しているがゆえに、参加者一人一人の体験は全く異なるものとなり、そこには“自分だけの物語”が生まれる。

 この「放置プレイ」こそ、イマーシブ体験の最終形の一つではないかと筆者は考える。何をすべきかを指示されないことで、かえってその空間に「いるだけでいい」というぜいたくさが際立つ。商業的演出に慣れた現代の観客にとっては、あえて“お膳立て”されていないこの体験、そして受け身でエンタメを消費するのではなく自ら関与して物語を紡ぐスタイルは、まさに「ぜいたくすぎる不親切さ」として映るだろう。この“不親切さ”は、決して冷たさや不備を意味するのではなく、むしろ体験する側の能動性を最大限に尊重した結果としての“余白”であり、“選択の自由”だ。だからこそその体験は、驚きと戸惑いをもたらしながらも、同時に極めて豊かで深い没入感を生み出している。

 もし他のイマーシブコンテンツや「コト消費」としての体験型エンターテインメントとの違いを一言で表すならば、「圧倒的に置いてけぼりになれること」――それこそが、『ザ・シャーロック』というアトラクションの魅力なのだ。

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