番号ポータビリティ(MNP)制度の導入の際、非常に注目を浴びたのはソフトバンクモバイルの動きだった。あのとき、そしてその後、何が起こったのだろうか。代表取締役社長の孫正義氏の言動から、その舞台裏を探ってみた――。
「ナンバーポータビリティ(MNP)に関する問題では、皆様に大変ご心配ご迷惑をおかけしたことを心苦しく思っています…<中略>…ほかのだれでもなく、すべてわたくし自身の責任です」――ソフトバンクグループの総帥、孫正義は息詰まるような空気の中、左右に広い「横長」の会見場を埋め尽くした「聴衆」を前に、丹念に言葉を選びながら淡々と語った。
2006年11月8日16時半。ソフトバンクは2007年度第2四半期の決算説明会を開いた。ソフトバンクの決算説明会は、証券アナリストも報道記者も一緒くたにして執り行われる。この日も、いつもと変わらぬ都内の高級ホテルの大宴会場で、いつもと変わらぬ夕刻に、いつもと変わらぬ500人ほどのアナリスト&記者を集めて…行われた。もちろん孫自身も、いつもと変わらぬ毅然とした態度で壇上に立っていた。
ただ、いつもと違った点も見られた。それは、孫が、決算説明に臨むにあたり3分ほどの時間を割いて、顧客や関係者らに謝罪の弁を述べたことだ。孫の脇を固めるように壇上に席を取った側近の姿の中にも、見慣れた財務関係者ら以外に、見覚えのある顔――ソフトバンクモバイル専務執行役の宮川潤一の姿――もあった。それから、会見が事実上、「2部構成」になっていたことがある。
その日はちょうど、携帯電話でMNP制度が導入されてから2週間が過ぎていた。
ソフトバンクは10月、買収したボーダフォン(現ソフトバンクモバイル)を通じて、念願だった携帯電話事業参入を実現した。3月の買収発表当時、旧ボーダフォンは国内3キャリアの中で明らかに負け組の様相を呈していた。2005年からはトップ人事も揺れ続いた。かつて(旧ジェイフォン時代に)「写メール」を投入し、たちまち市場の支持を得たのは、まさに過去の栄光と化していた。
そんなキャリアを、孫は約1兆7500億円という大金を投じて手中に収めた。もともとゼロから携帯電話事業を築こうとしていたが、ユーザー数で比較すると、5000万人も抱えるNTTドコモ、2500万人にまで増やしたKDDI(au)と、敵の規模は大きい。そのため、一から積み上げていくよりも「(既存ユーザー数)1500万人というベース」に立って戦いに挑む方が早く宣戦布告ができると考えたのだ。
富士山登山でいきなり三合目に姿を見せた孫。「本当の登山」が始まるといわれる五合目は、麓から眺めるよりがぜん近く感じられるようになった。ならば、一挙にたどり着いてしまいたい。何も時間をかける必要などない――孫がそう思うのは、ごく自然なことだった。
最初の勝負――照準はMNP導入開始時に定めた。
ただ、「負け組キャリア」で臨む戦だ。形勢逆転には、それなりの「奇策」が必要になる。「当面の敵」ともなるauは、2005年から純増数でほぼ毎月、ドコモを上回る勢いを見せ、一挙にユーザー数を増やしている。10代、20代を中心に絶大な人気を誇っているのは、周知の事実になったといっていい。「顧客満足度No.1」という触れ込みで展開する広告は、そうした自信の表れにも映る。そんな強敵が、頂を目指し、かなりの速度で目の前を「駆け上っている」のである。
本格的な携帯電話事業参入を目前にした2006年8月の第1四半期決算説明会。「最近毎日朝から晩まで、携帯電話のことで頭の中がいっぱい…」と顔をほころばせて語り始め、アナリスト&記者から笑いを誘った孫。抜群の「つかみ」で、はやる気持ち抑えられないようにも見えた。それは今考えてみると、10月24日というMNP導入日に向け、ひたすら「奇策」を考え続けていた証だったといえなくもない。
孫の奇襲攻撃が始まる――その知らせは、ついに、そして突然やってきた。10月23日昼過ぎ。報道陣に対し、「『ソフトバンクモバイル記者会見』のご案内」が届けられた。
Copyright© 2010 ITmedia, Inc. All Rights Reserved.