激化する覇権争い――「夢のパソコン」の行方は温故知新コラム(1/2 ページ)

世の中に登場して半世紀しか経たないコンピュータにも、歴史が動いた「瞬間」はいくつも挙げることができる。ここに紹介する「ビジュアル」もまさしくそのひとコマ――。

» 2007年09月26日 07時00分 公開
[大河原克行,ITmedia]

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マルチプラットフォームを1つのパソコンで

 1988年2月、社団法人日本パーソナルコンピュータソフトウェア協会(パソ協)が「ソフト・チャンネル・マシン構想」と呼ばれるコンセプトを発表した。そしてハードメーカー各社も、この構想に準拠したパソコンの発売を表明した。

 当時の国内パソコン市場においては、NECのPC-98シリーズが独占的状態とも言えるシェアを獲得する一方で、PC-98シリーズのアーキテクチャを生かしながら、すでに国際標準となっていたIBM・PC/ATアーキテクチャを、いかに国内市場に持ち込むかが業界関係者の関心の的となっていた。

ソフト・チャンネル・マシンの記者会見の様子。左から3番目がパソ協の清水洋三専務理事、その右隣がJPLの池田毅社長。立っているのが推進役だったパソ協の鹿野谷武文氏(すべて当時)。左端がヨドバシカメラの藤沢昭和社長。藤沢氏がIT 関連の記者会見に姿を見せたのはこれが最初のことだろう

 98互換機事業を成功させ、その後、AT互換路線も打ち出す「セイコーエプソン」。98互換とAT互換をエミュレータ方式で実現した「シャープ」。試作品まで作りながら98互換への参入を断念し、日本独自のAT 互換となるAX陣営に参画した「三洋電機」。海外での実績を背景に独自に日本語AT 互換を追求した「東芝」。そして、現在の主流となるDOS/Vの流れを作った「日本IBM」。まさにパソコンメーカー各社が、次代のパソコン市場の主導権を巡って、さまざまな手を繰り出していた時期だった。

セイコーエプソンは“98互換機”で国産標準機の互換機路線を歩んだものの、その後、PC-98とPC/AT(DOS/V)のデュアル互換機を投入した

 そこに突如として出現したソフト・チャンネル・マシン。ソフトメーカーが中心となっての提唱という点で、ハードメーカーが取り組む互換機戦略とは一線を画す、ユニークなものだった。しかも、ソフトメーカーの業界団体であるパソ協みずからが音頭取りをするという点でも興味深かった。

 ソフト・チャンネル・マシンとは、PC-98シリーズのプラットフォーム、IBM・PC/ATのプラットフォームだけでなく、東芝のJ-3100によって実現された日本語IBM互換プラットフォーム、そして富士通のFMR、日立のB16、シャープのMZという各社の独自プラットフォームに加え、企業需要を中心に立ち上がりつつあったAX陣営のプラットフォームや教育向けパソコンとして注目を集めていたTRONパソコンなど、これらすべてを1つのパソコン上で動作させてしまおうというものである。

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