MBA取得、そして工場での草むしりの日々オルタナティブな生き方 坂本史郎さん(青春編)(1/3 ページ)

毎朝4時20分に起床して、全社員へのメールとオルタナティブ・ブログ「坂本史郎の【朝メール】より」執筆を日課としている坂本史郎さん。前編では、諸外国で過ごした幼年時代と米国での青春時代を中心に話を聞いた。

» 2010年07月28日 11時30分 公開
[聞き手:谷川耕一、鈴木麻紀,ITmedia]

外国で暮らした子ども時代

 父が外交官だったため、子どものころはいろいろな国で暮らしました。3歳でフィリピンに住んだときはタガログ語訛りの英語を話し、5歳でスイスに移り住んだときはフランス語を話しました。そして中学1年で英国に行き、約3年間暮らしました。日本に戻ったのは高校に入学するときで、それからは日本で暮らしています。

坂本史郎さん 1970年春 小学2年生 スイスジュネーブの学校にて

 文化の異なる国々で暮らしたことで、新たな文化に触れる際には先入観を捨てることを、自然と身に付けられました。先入観を捨ててマナー違反をしないようにすれば、新しい文化コミュニティーにもすんなり入っていける。とはいえ、これは適度な距離をとることにもなるので、どっぷりとその文化に浸かることができないという欠点にもなります。

 新たなコミュニティーにすぐ溶け込めるという特技は、就職してからも役立ちました。米国へ留学したときもほとんど苦労はありませんでしたし、大企業から飛び出しベンチャー企業を立ち上げた際にも、卑屈になることはありませんでした。そういう態度が生意気だととらえられることもありました。もともと、先輩後輩の上下関係があまり得意ではなかったことが原因だったのかもしれません。でも、変な上下関係意識がない方がいい面もありますし、海外では厳しい上下関係のない環境の方が主流です。

電子メールに魅了された新入社員時代

 大学卒業後に入社したのは、化学素材メーカー大手の東レ株式会社(以降、東レ)でした。機械工学を専攻していたので、同級生の多くは自動車メーカーや重工業企業などに就職し、化学素材メーカーへ就職したわたしはかなり珍しい存在でした。東レを選んだ理由は、新素材を扱うビジネスは、前例が少ない世界だと考えたからです。前例がなければ、15年も努力すれば、その分野の第一人者になれるはず。どうせ仕事をするのならば、第一人者を目指そうと思ったのです。

 最初に配属されたのは、新素材『ケブラー』の部署でした。米国の化学メーカーデュポン株式会社(以降、デュポン)との2社ジョイントベンチャーだったので、外国人が多くて上下関係も重視されず、すぐに職場に溶け込めました。入社1年目の後半には海外出張に行かせてもらえるなど、かなり楽しく仕事ができました。

 この最初の職場で、コンピュータを使うようになりました。デュポンの社員が、日本にはほとんど存在しなかったMacintosh SE/20を持ってきたり、DECのVAXシステムがあったり。わたしはもともとコンピュータが好きだったので、仕事でも積極的に利用するようになりました。1986年、日本のオフィスからも英語で電子メールが利用できるようになり始めたころです。1200bpsで米国のアクセスポイントに接続するためにモデムの設定をしたり、メールを読むのに必要なシステムのセットアップをしたりしていました。

 このときの経験が、その後のわたしの人生を大きく左右したのかもしれません。わたしは電子メールの技術的な仕組みにではなく、どう活用するのかに興味を持ちました。電子メールの同時性にまず驚き、さらにフラットな連絡方法に大きく感心したのです。紙の文書などで別部署の人に連絡を取ろうとすると、上司経由で行わなければならない。これが電子メールだと、CCに上司を加えるだけで直接コンタクトできる。これは実にいいものだと思い、部署内に普及させることに熱意を持ったのです。

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