バー、チャタムハウス。柔らかいステンドグラスの間接光と木を基調とした落ち着いたカウンター。どういうわけか、高級なワインや洋酒がずらりと並んでおり、とても会社の保養施設には見えない。料金も格安らしく、多くの客が訪れている。
カウンターの奥ではママの山賀(やまが)がグラスを拭いている。このママがどのような経緯でひまわり海洋エネルギー社のバーにいるのかは謎のままだが、どうやらCSIRT業界では有名な人らしい。
若い頃にはいろいろなところで働いていたらしく、このバーには当時の友人も多く訪れると聞く。
守社がとぼとぼと入ってきてカウンターに座る。力なく、ママの山賀のほうに顔を向ける。
山賀は察し、声を掛けた。
「あらー、ここは初めて? 何かあったのかしら。ここでは何でも話していいのよ。お店の由来となっている、チャタムハウスルールってご存じ? なかなか話しづらい内容を誰かと共有したいとき、機密保持契約みたいなものでやる場合もあるけど、そんなの、信用できる? また、めんどくさいわよね? 詳しくはググってほしいけど、そこで聞いた話は自分で自由に利用、応用して自分の肥やしにして構わない。だけど、誰から聞いたかはヒミツ。ここだけは守ってね。それだけ守れば後はオッケー。何でも相談に乗るわよ」
守社はほっと安堵のため息をついたが、どうしてこの人は男なのにこういう話し方をするのか、という素朴な疑問は心にしまっておいた。
「原則守社と言います。CSIRTのセルフアセスメント担当をしています。実は今日、折衷さんに諭されて。あの人、優柔不断な、ただの気の良いおじさんかと思っていたらとんでもなく熱い人でした。言うこと言うこと、心に刺さって、自分のふがいなさに落ち込んでいるところです。私なんてまだまだです」
山賀はひときわ明るく答える。
「ああ、あぁ、折衷さんね。あの人も苦労人だからね。いろんな部署を転々として、行く場所行く場所で人とぶつかって。ここにも何度も来ているわよ。守杜(すず)ちゃんだっけ? まったく同じ悩みを折衷さんからも聞かされたわ。もっともその時は、折衷さんが皇(すめらぎ)さんに諭された、と言ってたけど」
守社は折衷の武勇伝や、皇との関係、昔はどうしていたのかなどを山賀からいろいろと聞かされた。
気が付くと、長い時間が経過していた。
守社の顔が少し明るくなった。山賀が続ける。
「誰だって最初からできる人なんていないのよ。人とぶつかって、つながって、切れて、またつながって絆ができて。そういうことを繰り返して信頼関係もスキルも向上する。落ち込むことなんてまったくないわよ。すずちゃんも熱い心を持っているわね。それだけあれば十分よ」
守社は顔を上げた。
「ありがとうございます。少しだけ、勇気が出てきました。また明日から、頑張れそうです。うれしいです。また来ます」
守社はそう言うと、くるりと踵を返して去っていった。
山賀は思う。
――いい子じゃないの。楽しみだわ。だけど、お酒を何も頼まないで出ていってしまうのはバーとしては困るわね。
季節は夏に向かっている。その前には梅雨という時期があるが、これも必要な季節だ。無駄な季節など1つもない。人も同じ。いろいろな経験、挫折を乗り越えて収穫の秋へと向かう。
ツツジからあじさいへ、花が変わる。半袖の季節ももうすぐだ。
【第2話 完:第3話に続く】
イラスト:にしかわたく
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