矛盾した概念「膨大なデータが欲しいLLM」と「プライバシー保護」のバランスをとる技術たちAIビジネスのプロ 三澤博士がチェック 今週の注目論文

現在のLLMが直面する最大の課題は「高い性能を得るために膨大なデータが必要」であるという事実と「プライバシー保護が絶対的」であるという要求が根本的に対立しているという点だ。本記事ではGoogleの「モデルにプライバシー保証を組み込むアプローチ」と、日本企業の「データを処理する環境やプロセスを保護するアプローチ」に焦点を当て、その戦略的意図と技術背景を分析する。

» 2025年10月15日 10時00分 公開
[三澤瑠花日本タタ・コンサルタンシー・サービシズ]

この記事は会員限定です。会員登録すると全てご覧いただけます。

この連載について

AIやデータ分析の分野では、毎日のように新しい技術やサービスが登場している。その中にはビジネスに役立つものも、根底をひっくり返すほどのものも存在する。本連載では、ITサービス企業・日本TCSの「AIラボ」で所長を務める三澤瑠花氏が、データ分析や生成AIの分野で注目されている最新論文や企業発表をビジネス視点から紹介する。

 大規模言語モデル(LLM)の企業導入が本格化する中、プライバシー保護アプローチにおいて戦略に大きな違いが生まれています。Googleは「差分プライバシー」技術を採用した「信頼できるモデル」を2025年9月に公開しました。

 一方で、NTTやNECといった日本企業は、データガバナンスに厳格な企業の個別課題に特化したソリューション戦略で差別化を図っています。この戦略の違いをひもといていきたいと思います。

AIが抱える根本的な矛盾 データ活用とプライバシー保護の両立

 現在のLLMが直面する最大の課題は「高い性能を得るために膨大なデータが必要」であるという事実と「プライバシー保護が絶対的」であるという要求が根本的に対立しているという点です。

 この課題に完璧な解決策はありません。「深層防御」というサイバーセキュリティの古典的戦略が、AIのライフサイクルに合わせて再解釈されつつあります。これは複数の異なる防御層を設けることで、いずれかの層が突破されても他の層で脅威を食い止めるという考え方です。

 この戦略と技術を簡単のため4つのフェーズに分けて提示します

  1. 基礎的プライバシー: 差分プライバシー(Differential Privacy:DP)に代表される、モデル自体に数学的な保証を組み込む技術
  2. セキュアコンピューティング: コンフィデンシャルコンピューティングという業界全体のトレンド。信頼可能な実行環境(TEE)のように、処理中のデータをハードウェアレベルで保護する技術
  3. 対話セキュリティ: プロンプトがLLMに渡される前に、機密情報を検出し匿名化するなどの技術とガードレール機能で不正な入力や不適切な出力をリアルタイムで監視、制御する技術
  4. 機械学習忘却: GDPRの「忘れられる権利」などに対応するため、一度学習したモデルから特定データの影響を選択的に除去する技術

 3つ目の「対話セキュリティのガードレール」は、MicrosoftやAmazon Web Servicesをはじめとする主要プロバイダーが注力する重要な分野ですが、ここではモデルの根源的なプライバシー保護という思想に焦点を当てるため割愛します。

 本記事ではこの分野における二大潮流、すなわちGoogleが発表した「モデル自体にプライバシー保証を組み込むアプローチ」と、それとは対照的にNTTやNECに代表される「データを処理する環境やプロセスを保護するアプローチ」に焦点を当て、その戦略的意図と技術背景を分析します。

Googleのモデル戦略

 Googleのプライバシー戦略の核心は、モデルそのものを堅牢(けんろう)化し提供することにあります。この戦略を具現化したのが、Google ResearchとDeepMindによって2025年9月12日(現地時間)にリリースされたLLM「VaultGemma」です。

 差分プライバシーは、プライバシー保護下における機械学習で最も信頼できる方法とされている技術です。これは、学習データセットに特定の個人のデータが含まれているか否かにかかわらず、モデルの出力が統計的にほぼ変わらないようにするという、厳密な数学的保証を与える技術です。モデルが特定の学習データを「記憶」し、意図せず漏えいさせてしまうリスクを理論上抑えられます。

 VaultGemmaの中核となる学習アルゴリズムは「差分プライベート確率的勾配降下法」です。簡単に説明すると、モデルの学習段階において、個々のデータの影響力に上限を設けた上で、数学的に調整されたノイズを加えてモデルを更新する最適化アルゴリズムです。この仕組みにより、プライバシーを数学的に保護しながらモデル全体が学習を進められます。

 VaultGemmaの研究における重要な貢献は「DPスケーリング則」の確立です。これは、計算予算やプライバシー予算、モデルの実用性の間の複雑な相互作用をモデル化するものです。そもそもノイズを加えるということは訓練の安全性(モデルが一貫性手学習する能力)を低下し、計算コストが大幅に増加するため、従来のスケーリング則が適応できませんでした。DPスケーリング則の確立により、将来のプライベートモデル開発のための予測可能なロードマップを提供できるようになりました。

 VaultGemmaの性能は、2019年の「GPT2 1.5B」(15億パラメータ)と同等とされています。2025年の同規模のモデル「Gemma-3 1B」には劣るものの、厳格なプライバシーを保ちながら有用なモデルを学習できるという概念実証を確立しました。この約6年という性能ギャップは強力なプライバシーを実装するための現在のコストを示しています。今後数年間のタイムラグを考慮したLLMの登場が期待されます。

NECによる連合学習の応用

 NECが推進する連合学習(または協調学習)は独自の戦略的ポジションを築いています。上で挙げた4分類が主に「単一組織のLLMをシステムとしてどう守るか」という視点で構築されているのに対し、連合学習は「複数の組織が、いかに安全に協力してLLMを開発できるか」という、より高度で協調的な課題を解決します。

 その中核技術である連合学習はLLMの学習フェーズで機能します。そのプロセスは、各参加者が持つローカルデータでモデルを個別に学習させ、生データそのものではなく、学習によって得られたモデルの更新情報(勾配やパラメータ)のみを中央サーバで集約する手法です。これにより、分散したデータのプライバシーを保ちながら、集合知を活用したモデル構築が可能になります。

 NECはこの技術をLLMに応用し、金融機関向けに取引のスコアリングするAI不正検知・リスク検知サービスを提供しています。また、このコンセプトを使用してLLMを下流タスクに適応させるための取り組みを行っています。例えば複数組織に分散している機密性の高いデータを効果的に利用するという取り組みです。

 連合学習はデータプライバシーと所在地の問題をきれいに解決しますが、通信効率やオーケストレーションの複雑さといった課題が存在しています。そのため、プライバシーをたもったまま組織間の分散したデータや企業間のデータを集約して活用するためには、アルゴリズムの理論的な優位性を確立することではなく、これらの現実的な課題を克服することが要となっています。

NTTとNTT Dataの「tsuzumi」モデルにおける効率性とカスタマイズ

 NTTらのモデル戦略は、巨大な汎用(はんよう)モデルとは対照的に企業ニーズに特化して設計された、より小型で専門的かつ高効率なモデルを提供することです。この軽量モデルのアプローチの利点は、推論とファインチューニングに必要なハードウェアリソースや電力消費、コストを大幅に削減できることです。この効率性により、データのセキュリティとプライバシーが最優先されるオンプレミス環境での展開が可能になります。

 オンプレミス展開は、NTTらのより広範なプライバシー保護技術戦略の一部です。NTTらはデータを暗号化したままAIの学習や推論を実行できる「Secure Computation AI」プラットフォームを開発しています。この技術は主に、高速な処理が可能な秘密分散方式を基盤としており、tsuzumiと組み合わせることで、企業の最も機密性の高い情報を閉域環境で安全にファインチューニングすることが可能になります。これにより、サードパーティーへのモデル提供によるデータ漏えいリスクを排除し、AIガバナンス原則に沿った信頼性の高いAI活用が実現されます。なお、このモデルはAzureクラウドプラットフォーム上で、従量課金制でも提供されています。

三澤の“目” LLMとデータ保護のバランスをとる技術たち

 Googleと日本企業のLLMプライバシー戦略は、どちらが優れているという話ではなく「誰の、どのような課題を解決しようとしているのか」という思想の違いから生まれています。Googleの戦略は、信頼性の高い基盤モデルを「プロダクト」としてオープンソースで提供するエコシステム中心のアプローチです。一方で、日本企業の戦略は、データガバナンスが極めて厳しい大企業のニーズに応えるための「ソリューション」提供にあります。日本の主要顧客が直面するデータの所在地と管理権というアーキテクチャ上の制約に対して、具体的な解決策を提供しています。

 LLMにおけるプライバシーとセキュリティの課題に対する万能薬は存在しません。組織は、自らのユースケース、データのセンシティビティ、リスク許容度を慎重に評価し、必要に応じた技術を組み合わせることで、イノベーションを推進しながら、LLMに伴う複雑なリスクを効果的に管理することが可能となります。

著者紹介 三澤瑠花(日本タタ・コンサルタンシー・サービシズ)

photo

AIセンターオブエクセレンス本部 AIラボ ヘッド

日本女子大学卒業、東京学芸大学大学院修士課程修了(天文学) フランス国立科学研究センター・トゥールーズ第3大学大学院 博士課程修了(宇宙物理学)。

2016年入社。「AIラボ」のトップとして、顧客向けにAIモデルの開発や保守、コンサルティングなどを担当している。

Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.

アイティメディアからのお知らせ

注目のテーマ

あなたにおすすめの記事PR