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<vol.29の内容>
株式会社まぐクリック 取締役 経営企画チーム マネージャー 島影将氏(2)
わずか32歳で2社のIPOに携わった株式会社まぐクリック取締役:島影将氏へのインタビューを3回にわたってお届けする。今回は実際にIPOに向かうまでの経緯について紹介する
短期間でブランド認知度を飛躍的に向上させ、併せて盤石な財務基盤をも確立する方法として、IPO(新規株式公開)ほど強力な選択肢は存在しないだろう。
東証マザーズ、大証ナスダック・ジャパンの2つの新興市場が設立されたことで、従来に比べてIPOのハードルが低くなったといわれている。しかし、主幹事証券会社、ベンチャーキャピタル、監査法人、弁護士などのさまざまな職能の専門家と意思統一をはかり、社内体制を整備し、長期間にわたってねばり強く金と時間をかけて問題解決にあたらなければIPOの成功はおぼつかないことは、賢明な読者ならすでによくご存じのことだろう。現在ではネットバブルは終えんし、公開延期企業も頻出しはじめている。
1999年8月27日、独立系ISPとしては日本で初めて店頭市場に株式公開したインターキュー株式会社(証券コード:9449 、 2001年4月1日、 商号をグローバルメディアオンライン株式会社に変更)は、公募価格4200円に対し初値が2万1000円と5倍の伸びを記録、同社は一夜にして時価総額1200億円企業に変貌した。
そして昨年(2000年)9月5日には、ナスダック・ジャパン市場でインターキューの連結子会社である株式会社まぐクリック(証券コード:4784)が上場し、設立1年未満の企業がIPOする初めてのケースとなった。
この歴史的ともいえる2つのネット企業の株式公開実務においてIPOプロジェクトチームの主要メンバーとして活躍し、現在はまぐクリック社の取締役を務める島影将氏が、2001年3月2日、渋谷インフォスタワー10階でネットインサイダー編集部のインタビューにこたえた。
インターキューの店頭公開では社内公開担当者の全員が未経験者だった苦労話などをはじめとして、プロジェクトチームの人数と概要、IPO成功の最重要点、店頭とナスダック・ジャパンの市場の違いなどに関して語る。
――さて、インターキューに入社して、いよいよIPOの業務に携わることになるわけですよね。入社してすぐにIPOのプロジェクトチームに参加することになったのですか?
島影:いいえ、インターキューに入社して、最初に取りかかった本格的な仕事は、インターキューの各サービスについての会員規約を作成することでした。ほかのISPの会員規約を読みあさり、弁護士と相談してまとめ上げました。
私が入ったときにすでに進んでいたIPOの準備といえば、資本政策だけは出来ており、それに従って進めていたということぐらいで、準備らしい準備は特にされておらず、会社として必要な日常業務をこなしていくのがまず先でした。
IPOのプロジェクトチームが発足したのは、確か1997年の12月あたりで、本格稼働したのは、翌年の3月ぐらいだったと思います。
――インターキューの株式公開を成功に導いた、そのプロジェクトチームの体制を教えてください。
島影:インターキューの店頭公開のときには、社長の熊谷がリーダーを務める社長直轄のプロジェクトチームということになっていました。とはいっても、きちんとした辞令もなく、なんとなくスタートしたという感じでしたね。そこからしていい加減でしたね(笑)。
社長を除くと、私を含めて4名のメンバーでなんとなくスタートしました。チームの体制は私の所属する社長室の室長、管理本部長、そして社長室の一員であった私ともう1人、の合計4名です。
――4名のうち、公開業務の経験者は何名いたのでしょうか?
島影:全員が未経験でした。
――そんな状況で、プロジェクト発足から1年8カ月で公開に持ち込んだのはすごいですね。
島影:すごいことなのかどうかは何とも分かりませんが、なんだかんだいっても、インターキューは売り上げと利益がきちっと上がっていたことが一番良かったのではないでしょうか。最近でこそ赤字でも公開できるなんていわれていますが、当時は「売り上げと利益」、これに尽きましたね。本当はこれが当たり前なのかもしれませんけどね。
私自身に関しては、あくまで勉強だけで身に付いていた公認会計士の知識が試されたわけですが、これが非常に役に立ちました。知識レベルで身に付いていたことが、現場で1つ1つ実務に結びついていきました。
――準備開始から1年と8カ月で店頭公開というのは、当初の計画どおりなのでしょうか?
島影:そうですね。スケジュール的には、ほぼ計画どおりでしたね。業績的にも、そもそも当初の事業計画からして、決して大風呂敷な計画を立てるということはなかったですし、インターキューの売り上げと利益は、毎月順調に伸びていきました。
また、社長の熊谷のマーケティング手腕も非常に優れていましたので、ほぼ計画どおりにいきました。保守的な事業計画と毎月の月次決算できちんと売り上げと利益を上げられたのが良かったと思います。
私個人としては1997年の8月25日にインターキューに入社して、店頭公開が1999年8月27日ですから、ちょうど2年と2日で目標達成でした。
島影:会社に缶詰め状態で、土日は当然なし。しかも連日終電帰りどころか、帰らずにサウナ泊まりが続きました。「社員として雇われている」と考えていたら、早く帰らせてくれとか、休ませてくれといった不満も出てきたのでしょうが、IPOプロジェクトチームのメンバーは皆、われわれが会社を変えていくんだという意気込みがありましたから……。つまり経営者と同じ感覚です。ベンチャー企業で働くには、特にこの経営者感覚が重要じゃないかと思います。
――具体的なところですが、監査法人はどこに依頼しましたか?
島影:中央青山監査法人さんです。当時は中央監査法人でした。また、アタックス今井会計グループさんに、全体的なアドバイス、書類作成などでサポートに入っていただきました。これが非常に強力でしたね。ここ一番というときには、連日徹夜に近い状態で頑張っていただきました。アタックスさんのサポートなしではIPOできなかったといっても過言ではないでしょう。
――参考にした本などはありますか?
島影:いろいろありますが、トーマツの店頭登録ハンドブックは教科書のように活用しましたね。中央青山監査法人からも株式公開の実務書が出ていますが……中央さん、ごめんなさい(笑)。
――証券や書類の印刷会社はどこを選びましたか?
島影:宝印刷さんにお願いしました。同社の証券研究部は非常に素晴らしかったですね。日本証券業協会や財務局に提出する書類は、「てにをは」や誤字脱字も許されない。もちろん、「てにをは」のみならず、あらゆる間違いを指摘してくれました。質問にも丁寧に回答していただきました。
――インターキューの株価はどうやって決まったのでしょうか?
島影:主幹事証券会社の野村證券さんの指導に従って決まりました。従来は、というかいまでも、同業他社のPERを基準に決めるのが一般的ですが、インターキューは米国のISP数社のPSR(Price Sales Ratio=株価売上高倍率)が基準となって決まりました。確か、日本ではPSRを適用して公募価格を決めた初めてのケースだとお伺いしました。
――IRはどこか専門の会社に依頼しましたか?
島影:野村IRさんにお願いしました。コーポレートストーリーを作るための大枠の流れや決算説明会の見学、そしてインサイダー取引規制に関する勉強会とか、いろいろアドバイスをいただきました。IR資料のPowerPointファイルは、社長の熊谷が自ら作っていましたね。自分で資料を作りますから、実際のプレゼンテーションも自らの思いが込もりますよね。
――インターキューの公開の成功要因には何が挙げられるでしょうか?
島影:先ほど、「売り上げと利益」がきちんと上がっていること、これに尽きる、といいました。確かにそれは「主幹事証券会社の審査」においては一番重要だと思います。しかし、公開するために「会社」として最も重要なことは、実はこれじゃないかと感じましたね。それは……。
(第3回につづく)
島影 将(しまかげ かつし)氏 略歴 | |
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1968年2月23日生 | |
1991年3月 | 千葉大学園芸学部卒業 |
1991年3月 | 野村證券株式会社入社 上本町支店営業課勤務 |
1994年10月 | 大宮西口支店営業課勤務を経て、野村證券を退職 |
1996年7月 | 公認会計士試験を受験するが不合格 |
1997年2月 | アルバイト生活を経て、技術系ベンチャー企業「センサーテクノス株式会社」入社 |
1997年8月 | 「インターキュー株式会社」入社、社長室勤務 |
2000年4月 | 「株式会社まぐクリック」入社、取締役就任(現在に至る) |
(取材:Netinsider編集部)
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