前回、豊若越司のアドバイスによって、ツールの浸透方法も「自分の営業スタイルの応用が重要」だと坂口啓二は気付いた。そのスタイルを応用し、腹を割って話すことで同僚の松下真樹の理解を得ることができた。今回は、坂口が担当する「新営業支援システム開発プロジェクト」が発足するほか、得意先との間に大きなトラブルが発生してしまう。
椎名 「坂口、行くぞ」
坂口 「ちょっと待ってください。PDAの充電がまだなんですが……」
椎名 「そんなもん、営業に関係あるのか? 早く行くぞ」
坂口の担当は、椎名から引き継いだ既存客のご用聞き。いわゆるルートセールスである。来年度から導入開始する「新営業支援システム開発プロジェクト」の推進委員となった坂口は、システムを構築するために営業の全体像を把握する必要がある。今日は、既存客の状況を教えてもらうために、椎名と一緒に回る予定だ。
坂口は、以前赴任していた仙台では主に酒屋や飲食店のような昔からの顧客が中心だったため、最近の動向、特に首都圏での動きには詳しくない。訪問途中、椎名に質問攻めする坂口だった。
坂口 「この前いただいたレポート、ありがとうございました! すごいですね。椎名さんがまとめたんですか」
椎名 「そうだ。といいたいところだが、残念ながら俺は手伝っただけでな。それは豊若さんが作った資料をたたき台にして、江口さんがまとめたんだ」
坂口 「えっ、豊若さんと江口課長代理って知り合いなんですか」
椎名 「いってなかったかな。豊若さんと江口さんは同期で、お互い良きライバルって感じだったんだ。2人に任せれば難攻不落の顧客もあっという間に得意先になったもんだよ」
坂口 「そうだったんですか……。なんだか信じられないですね」
坂口の脳裏に、パソコンに触ろうともしない江口の姿が浮かんだ。IT推進派の豊若とはまるで正反対だが、その2人の意外な過去に坂口は驚いていた。
椎名 「2人はITに対する考え方がまるで違っていたんだ。豊若さんは、ITを使って業務効率を上げるために、いろいろなものを導入しようと奔走していた。一方の江口さんは、『顧客とのフェイストゥフェイスが一番大事だ』といって、ITによる効率化に反対していたのさ。『IT化で画一的なサービスを提供するのは、営業の本質ではない。顧客1人1人のニーズに応じたきめ細かさがないと駄目なんだ』といってね」
坂口 「でも、豊若さんも顧客との関係を無視しているようには思えないですけど……。先日も、『ツールだけじゃ駄目なんだ。人の心を大切にしろ』とおっしゃっていましたし」
椎名 「それはそうなんだが……。例のグループウェアの導入失敗が豊若さんのせいになって、しかもなぜかそれが顧客軽視のようなとらえられ方をされてね。結局、あのグループウェア導入完了を見届けて豊若さんは退職したわけだ」
坂口 「そうだったんですか……」
坂口は、あらためて椎名からコピーしてもらったレポートに目を通していた。「ビール業界における営業活動の今後」という表題で、グラフや図を使って分かりやすくまとめてある。しかし、エクセルやワードといった電子化させた部分と手書きの部分が交ざっており、どうも追加された分が江口による手書きのようだった。
椎名 「最近は、第3のビールの新製品ラッシュだろ。営業としては、新たな『フェイス(陳列スペース)取り』が至上命令なんだ。しかも酒類の販売免許が自由化されたおかげで、潜在的な顧客が増えてきた。そこで俺が新規顧客開拓に回されたわけだ。その分、しっかり既存顧客の守りを頼んだぞ、坂口。特にキラリビールの営業攻勢は、半端じゃないからな」
坂口 「はい、任せてください! それにしても提案型営業なんて、IT化にはうってつけですね」
椎名 「俺にはよく分からんが……、松下嬢のときのように先走るなよ」
坂口 「今度は大丈夫ですよ。『周囲の理解を得ないIT化は失敗する』。この前、それは痛感しました。業務改善でIT化するというのは、業務改善が目的であって、IT化は手段にすぎないんですよね。使う人や関係者の意思を無視して行うIT化は、まさにITが目的になっている典型的な悪い例なんですよね」
椎名 「少し分かってきたじゃないか。その気持ちを忘れるなよ……。着いたぞ。今日はオブザーバーだからな。大人しくしてろよ」
そういうと椎名は、大手スーパーの駐車場に車を止めた。2人は最初の目的地である得意先のところへと歩いていった。
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