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» 2008年06月23日 12時00分 公開

何かがおかしいIT化の進め方(37):事の本質を見極めよう (1/3)

一連の食品偽装事件は事件そのものも問題だったが、それを感情的にたたくばかりのマスコミ、情報をうのみにしがちな視聴者、といった側面にも問題が感じられた。IT業界においても、目先の情報に惑わされず、事の本質を見極める力が求められている。

[公江義隆,@IT]

感情が先行し、本質は闇の中へ

 昨年は食品偽装に明け暮れた1年であった。まったくもってけしからぬ事件であったが、 時を経て振り返ってみれば、マスコミの報道や、問題を起こした企業経営者の発言の中にも考えさせられるものがあった。

 白黒テレビがようやく一般家庭に入り始めた1958年、戦後のジャーナリズムをリードしてきた評論家、大宅壮一氏(1900〜1970年)は、庶民の夢の実現として普及に向かうテレビを見て「1億総白痴化時代の到来」と評した。

 「大量情報の受動への偏重依存が、想像力・思考力の退化につながる」との洞察であったといわれている。 当時、この言葉を真剣に受け止め、理解する人はほとんどいなかった。しかし今日、まさしくそのような時代になってしまっている。

 食品の偽装事件に対する世間の反応などは、その顕著な例であろう。 例によって、マスコミはこのときとばかりに、不祥事を起こした企業やその経営者を感情的にたたきまくった。

 テレビのワイドショーでは、どこかで多少名前が知られているというだけのコメンテータが、消費期限と賞味期限の区別もしていないような無責任な発言を繰り返し、揚げ句の果てには「自分が若いころは、においをかいで食べられるかどうかを自分で判断したものだ」「まだ食べられるものを期限切れで捨てるのはもったいない」「そもそも賞味期限という方法がおかしい」といった話の流れの中で、問題をうやむやにしたまま時間切れ、といった番組もあった。

本質をすり替えるのは誰だ

 しかし、この事件の本質は「偽装」であって「表示の問題」ではない。製造業者や販売業者が消費者をだました一種の詐欺的行為が問題であって、「表示の問題」を持ち出すのは問題のすり替えである。テレビ局側にその意図があったのかどうかは分からないが、もしその意識さえなかったというなら問題はさらに深刻だ。

 「表示の問題」は法律の問題であるし、「においをかいで〜」という発言についても、昔のように天然の原材料を使ったものや、シンプルな製造方法のものならともかく、昨今のようにさまざまな食品添加物を使用して作られた製品については、においをかいだくらいで判断できるものではないだろう。安全を保証する「消費期限」、味や品質の保証を約束する「賞味期限」を決める情報は、製造者側にしかない。いずれにせよ、これらは事件の本質とは別の問題である。

 最近、話題となっている「後期高齢者医療制度」についても、問題を整理しないままに、感情的な議論がなされている。 例えば「年金からの引き落としがけしからん」というのは、「年金問題において、国が払うべきものを払えていないのに、取るものだけはきっちり取るのか」といった感情論である。

 野党の戦術にマスコミが乗ったのか、マスコミの通弊で国民感情を代表しているつもりなのかは分からないが、これでは本当に議論すべき「医療制度の問題」がかすんでしまう。メディアが国民の感情を煽り立てるやり方は大変危険だ。

  「後期高齢者医療制度」が制定された2年前になぜマスコミは取り上げなかったのか、よく考えてみるべき問題である。その必要性について具体的な説明もないまま、いつのまにか決められていた裁判員制度、テレビの地上波デジタル化の問題も同様である。裁判員制度については本質論の議論はないまま各論レベルの問題がいま話題とされ、地上デジタル化については議論の片鱗もない。こんな形で既成事実化されていく。

メディアへの安易な依存が、感情論を増幅させる

 そもそも「消費者目線」とか「消費者感覚」といった大義名分のもと、問題に対する知識を十分に持たないコメンテータに、感情的な発言をさせてしまっているのがテレビ報道の残念な現状である。「消費者目線」「消費者感覚」とは価値判断の基準、観点であり、情報の理解度についてメディアと消費者が同じレベルであってよい、ということには決してならないはずなのだが。

 一方、消費者は情報が簡単に得られることによって、自ら考えることなく、安直に結論だけを知りたがる体質になっている。実は、その問題については素人の見解であるにもかかわらず、有名人がいった、というだけで何となく信じてしまうのである。さらに、国の将来を左右するような重大な問題と、芸能人のゴシップが同列に扱われることにより、視聴者から事の軽重に対する感覚が失われていく。

 的確な判断力が失われていく中で、レベルの低い表面的、断片的な情報を知ることで満足し、何となく分かった気になり、そんなことで世論が形成されるとすれば、これは恐ろしいことである。

 かつてのジャーナリズムには、ときに感情的になる一般大衆とは一定の距離を保ち、大所高所から権力と対峙し、「強きをいさめ、弱きを助ける」伝統と見識があった。情報量は少なくても、これがその質を維持する支えになっていた。

 現在のマスコミには「強きにおもねり、弱みを見せればいじめ抜く」、「権力とスポンサーにおもねり、出演者(TVタレント)に気を使い、視聴者にこびる」体質が残念ながら否めない。内容や出演者の発言が「面白いか、面白くないか」──これが、視聴率の自縄自縛に陥っている、現在のマスコミ・テレビ局の価値基準のようである。これでは情報の質の低下は止まらない。

 かくして、半世紀前に1人のジャーナリストが洞察した通りの、“自ら考えようとしない”時代になってしまった。テレビというメディアによって「安易に得られる、質の高くない大量情報が思考力や想像力を退化させる」ということが現実のものとなってしまったのである。

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