筆者の父は、地方公務員であった。勤務先が自宅から自転車で10分ほどの福祉事務所だったこともあって、夏場は日没までにまだいくらかの時間もあるうちに帰宅したものだ。
毎日時計のような正確さで5時15分に帰宅すると、長いホースを引っ張り出して庭の植木に水をやる。筆者が子供の頃は、夕日に照らされた水しぶきに虹ができるのを眺めるのが大好きで、飽きもせず父親の後をついて回ったものだった。それが終わると、ちょうど大相撲の最後の3取り組みぐらいの時間となる。
テレビの前に寝転がって大鵬が勝つのを確認すると、今度は風呂に入って浴衣に着替える。あとは焼酎をチビチビとなめながら、今朝の読み残しの朝刊を隅々まで読むうちに、夕餉の支度ができあがる。7時ごろには酒屋を営む祖父母も店を閉めて、一家6人そろっての食事となるという日々が、永遠に続くと思われたものである。
大人になれば、そういう生活が待っているものだと思っていた。ところがいざ自分が就職してみると、そんな生活など夢のまた夢であることを思い知らされることになる。特に筆者が就職したのはテレビ業界でもっともキツい職種、ポストプロダクション勤めだったため、朝9時半に出勤すると、翌朝の9時半までノンストップでみっちり働かされる。睡眠は2日に1度という生活が、4年あまりも続いた。
筆者がそんな会社を辞めようと思ったきっかけは、ある日、赤坂溜池のあたりで、赤坂プリンスの向こう側に沈みゆく夕日を見てしまったからである。その日は編集室の改装工事が入っており、いつもよりも早く、というか普通の時間に帰ることになったのだ。
水面に反射する落陽の光に包まれながら、家路へと急ぐ人の群れに混じって歩いていると、ふと父のことが思い出された。筆者の記憶の中では、大人も子供も、夕焼けの黄金色の光の中で、家に帰るというのが常識だったはずなのである。
普通は今頃帰るんだよな、という思いと、このままこの仕事を続けている限りこんな時間には帰れるはずがないな、という思いが交錯し、「こんな生活は人間らしいとは言えないんじゃないか」という怒りにも似た感情がこみ上げてきた。
結局それから会社を辞めるまで、なんだかんだと慰留されて半年もかかってしまった。「精神的な健康」を求めて会社側と話し合っても、「そんなことを考えるのはオマエが弱い人間だからだ」と叱責されたような時代である。だがその後の人生や、人との出会いを考えると、あのとき主張したことは間違っていなかったと思えるし、やっぱり辞めて良かったんだろうな、と思う。
今国会では、「サマータイム法案」なるものが提出されようとしている。日本では数年前から、世論調査などの結果を見ながらサマータイムの導入が検討されているが、今年はその正念場を迎えることになりそうだ。
まずサマータイムの基本的なところからおさらいしてみよう。この制度は、日照時間が長くなる期間に限って時計を一時間早める、つまり働く時間を全体的に「せぇの」で前に一時間ずらすことで、太陽が照っている時間を有効的に使おう、というのが基本的な考え方である。
たとえば朝5時に日が昇っても、ほとんどの人はそこから1〜2時間は寝て過ごしている。その分が無駄というわけである。太陽が出ている時間と人間の起きている時間を極力シンクロさせるわけである。
世界的に見ると、サマータイムを導入している国は、ECとカナダ、米国ほか、それらの国々と関係が深い国、オーストラリアやニュージーランド、メキシコ、キューバなどが実施している。アジアではロシアやモンゴルも導入国である。
導入国を見るとわかるように、比較的緯度が高いため元々日照時間が短い国では、導入のメリットが高いことは想像に難くない。一方、低緯度の近隣国でも導入しているのは、取引国と時間を合わせた方がビジネス面で有利だから、という面が強い。
サマータイム導入の効果としては、以下のものが上げられている。
一見いいことばかりに見えるが、すんなり導入が決まらないわけは、それぞれの要素に対して反論があるからだ。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
Special
PR