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ブログに問われる書く技術、話す技術小寺信良(3/3 ページ)

» 2005年06月13日 08時57分 公開
[小寺信良,ITmedia]
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 話が別の方向にそれていってしまったが、なにが言いたいかというと、同じ日本語でも会話文と記述文は全然違う、ということなのである。人に見せて理解させるための文章では、普段われわれがしゃべっている調子をそのまま文字にしても、あまりにも冗長な割には主語・主体があいまいで、内容がはっきりしない。書き言葉では、主語・主体の省略、あるいは助詞の省略は、やりすぎると意味が通じなくなってしまう。

 以前から思っていることだが、英語圏では「口述」ということが頻繁に行なわれる。古くは主人が手紙を口述するのを秘書がタイプするようなことも、珍しくなかった。現在でもボイスレコーダーなどのデバイスに口述を記録することに対して、ためらいを感じている様子はない。『Star Trek』の世界では、艦長の航行日誌はすべて口述で行なわれる。

 もともと英語は話し言葉と書き言葉の間に、あまり明確な区別がない言語なのだろう。一方、日本語はというと、主語・主体の省略ばかりではなく、語尾をはっきり言わず後は聞き手に任せるという話し方が一般的なため、あまり口述筆記に適した言語とは言えまい。あとで文章として起こすためには、それを意識して話し方を変えなければならないのである。

 例えばインタビュー記事などを読むと、括弧でくくって補足語を入れてあるケースをよく目にする。これは、その場のしゃべりではニュアンスで意味が通じても、そのまま文章化してしまうと誤解される要素が日本語には多いからである。

 話すことと書くことは、同じ日本語を扱うにしても用法が違うにもかかわらず、世の中にはブログの書き方教室ができたり、文章の書き方教則本が地道に人気があるという話は、聞いたことがない。話すのに不自由していない限り、小学校から散々作文をやってきたことで十分だと思われているようである。

 幕末から明治にかけて、欧化政策の一環として「言文一致体」が確立して以降、口語と文語を使い分ける必要はなくなったことは、われわれとしては感謝すべきだろう。だがそれは決して、話し言葉がそのまま書き言葉になるという意味ではないのである。

ポッドキャストは文章難民を救うか

 思っていることを文章に起こすことが苦手なら、実際に話せばいいのではないか。音声版ブログとして米国で注目され始めているポッドキャストに、その解を求める動きも今後は出てくることだろう。

 だが、ただでさえ口述に向かない日本語では、一人でしゃべって何らかの意志を人に伝えるということは、文章を書くことを超える訓練が必要だという事実が、どうも置いて行かれているような気がしている。いわゆるモノローグをその場の思いつきだけでしゃべり始めても、意味が伝わらず、気持ち悪いイタズラ電話みたいになってしまうだけだ。

 しゃべりのプロ、アナウンサーのための研修では、発声や滑舌のトレーニング以外に、必ずニュース原稿の作成がセットになっている。それを何度も声に出して読みながら、おかしいところや分かりにくいところは、先輩記者やアナウンサーが直していく。日本語をうまく一人でしゃべるためには、いったん言いたいことを文章にしてみるというのが、実は一番の近道なのである。

 筆者もたまに講演やディスカッションなどに引っ張り出されることがあるが、そのときは簡潔な台本を書いていく。そもそも文章だけでさえ話があっちこっち脱線していく筆者なのであるから、その場の思いつきでしゃべるよりは、ずいぶんマシだと思っている。それが場慣れしていない人間が人前でしゃべる、最低限のマナーだと考えるのは、あまりにも大げさ過ぎるだろうか。

 もし文章を書くのは苦手だけど、どうしてもポッドキャストを始めたいというなら、一人でしゃべるのはやめて、2人での掛け合いをお勧めする。お互いの言葉が足りない部分を突っ込みながら進行するほうが、日本語の構造としては向いているだろう。

 「たかがブログ、そんなにちゃんとしなくても自分が楽しけりゃいいんじゃない?」という意見もあるだろう。しかしそれは、広く公開されちゃうのである。出すのも勝手、見るのも勝手のままでは、あまりにも無責任すぎるだろう。

小寺信良氏は映像系エンジニア/アナリスト。テレビ番組の編集者としてバラエティ、報道、コマーシャルなどを手がけたのち、CGアーティストとして独立。そのユニークな文章と鋭いツッコミが人気を博し、さまざまな媒体で執筆活動を行っている。

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