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ムービーがテレビを捨てる日小寺信良(3/3 ページ)

» 2007年03月19日 09時00分 公開
[小寺信良,ITmedia]
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 ここでは仮にこれを「1カットムービー」と呼ぶが、1カットで面白いものが作れるとしたら、時間軸の中でどこからどこまでを切り出すのが最も効果的か。面白い、あるいはイイという感覚は、ビデオの撮り始めから取り終わるまでを全部を見せては生まれない。始まりが半秒早かったり、終わりが半秒遅いだけで、間が悪くて笑えないということは、実際にあることだ。

 これは、写真におけるトリミングと似ている。どんなに綺麗に撮れた花の写真でも、画面の端の方に花を固定したガムテが写っていたら、その価値は半分以下になることだろう。だから、トリミングして切り取ってしまう。ムービーの切り取りも、いかに中心となる事象に集中させるかということなのだ。空間の切り取りを、時間軸に変換する行為と言えるかもしれない。

ムービー投稿サイトの限界点

 ただこのような投稿ムービーの面白さは、やがて限界が来るだろう。それはすでに現在のビデオジャーナリズムの中に顕著化し始めていることだが、「物作りの魔法」が起こらないからだ。

 映像機器の発達がもたらしたものは何か。それは小型化・軽量化などいろいろあるが、それらがトータルでもたらしたものは、省人化である。現代の映像コンテンツは、1人で撮って1人で編集し、完成品を作っているケースも少なくない。ある意味理想的な、ビデオジャーナリズムである。

 しかし、過去に業種分業で制作していた人がこういう一人制作体制に入ると、最初のうちはよろこんでやっているが、次第につまらなくなっていく。制作作業自体もつまらないし、出来上がる作品もつまらないという。なぜならば、最初から自分の予測した範疇のものしか出来上がらないからだ。

 大人数が協力して作るコンテンツは、一つの作品に対していろいろなキャリアや立場を持つ人たち――すなわち撮影、照明、音声、大道具、小道具、ヘアメイク、衣装、編集、音効ら――が、己の能力を発揮することで影響を与えていく。つまりはそれが、大人数で制作することで起こる「魔法」なのだ。この魔法が上手く働いたものは、制作者の意図や予想を超えたものが出来上がる。

 1人で作っていくものは、常に等身大の自分を超えられない。それを超えたければ、自分自身の成長を待たなければならない。だがその成長は、自分1人ではなし得ない。個人投稿というムーブメントは、そういうループに陥りやすい構造を持っている。それは映像文化にとって、必ずしも良いことばかりはもたらさないということである。

 投稿ムービーサイトの運営を考えている企業もあるようだが、生半可なことでは成功しないだろう。なぜならば、運営のためにはもちろんお金が必要で、それを広告収入に頼るとするならば、投稿者は必ずなんらかのインセンティブを求めてくるからである。

 そのインセンティブはお金なのか、名誉なのかはわからないが、それを与えるためには、なんらかの優劣を付けなければならない。そしてそれが競争を産むわけだが、それが良い方向に回転しているうちは幸せだ。だがやがて、作品の内容に関係ない部分や、アンフェアなやり方でビューを獲得するものが出てくるだろう。

 広告収入を稼げば、それだけその投稿者を優遇しなければならなくなる。結局のところ、そのような問題および構図は、テレビ局の在り方そのものなのである。

 ネットが動画コンテンツの配信元として、テレビを飲み込む日はそう遠くないだろう。だが良い意味でも悪い意味でも、それはネット上に別のテレビ局ができるだけなのかもしれない。


小寺信良氏は映像系エンジニア/アナリスト。テレビ番組の編集者としてバラエティ、報道、コマーシャルなどを手がけたのち、CGアーティストとして独立。そのユニークな文章と鋭いツッコミが人気を博し、さまざまな媒体で執筆活動を行っている。

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