問題が大きくなって国会に呼ばれた漆間氏の答弁は、ある意味では手強いものだった。彼は、そういう話をしたとは「記憶にない」と言ってのけた。これは、自分の誤り(今回は軽率な発言)を事実としては認めないという意味だ。同時に、メディアが書いた記事はメディアの側の勝手な判断に過ぎないと言っている。オフレコとはそういうものではないのかとメディアに問うている。オフレコで話を聞いた記者達・メディア側に、それでももう一度オフレコをひっくり返すつもりがあるのかとプレッシャーを掛けつつ、「お互いの認識の違い」という“落とし所”を用意して、しかも自分のミスを公式には事実として認めない(事実がないのだから処分の対象にできない)という、ある意味では見事な官僚答弁だった。
筆者の予想だが、おそらくメディア側は発言が事実としてあったのかどうかを自分の側から話を出して争うことはないだろう。当事者の一方としては腰が引けているともいえるが、野党議員の追求などを報じてお茶を濁すことになるのではないか。オフレコを後からひっくり返して事実として確認するということになると、今後の取材がやりにくくなって困るというサラリーマン的な現実認識が働くだろう。
しかし問題のレベルは霞ヶ関的な形式論から、世論が納得するかという感情の問題に移行してしまったので、これで漆間氏が難を逃れたかどうかはまだはっきりしない。
その後に続いた麻生首相の「報道が誤りだった」との談話は、メディアの立場についても、落とし所に対しても、配慮を欠いた発言だった(麻生氏は、後から訂正することになった)。問題の文脈が分かっていない。この調子では、ビジネスマンとしても落第だろう。
「処置なし」と言うしかない麻生氏のことはさておき、取材をする側も、受ける側も、約束の担保評価が大切だということが確認された今回のケースだった。
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