“高橋名人”という社会現象――高橋利幸氏、ファミコンブームを振り返る(前編)(2/5 ページ)

» 2009年03月12日 19時00分 公開
[堀内彰宏,Business Media 誠]

「何でおもちゃ行っちゃうの?」と言われた

高橋 1983年のファミコン発売から2〜3カ月経ったころ、任天堂さんからシャープさん経由で「ファミコン用のBASIC(ファミリーベーシック)を作ってくれないか」という依頼がありました。当時、ハドソンはシャープのX1用のOSを作っていたので、任天堂さんから依頼されたシャープさんがハドソンに振ってくれたのです。

 そこで9月くらいに、ハドソンの副社長がファミコンを買ってくるんですね。「高橋、これどう思う?」と聞かれました。すでにファミコンソフトの『ポパイ』や『マリオブラザーズ』は30万本くらい売れていました。当時、パソコンは20万円くらいなんです。比較的安いPC-6001でも8万くらいでしたが、それに比べてファミコンは1万4800円でパソコンよりきれいな画像のゲームができるわけです。なおかつソフトの販売本数も(パソコン用が)1万本と(ファミコン用が)30万本。これは経営者としては飛びついて当たり前です。私たちもここで飛びつきました。

 もしファミリーベーシックがファミコンになければ、ハドソンも参入していなかったのではないでしょうか。参入していても2〜3年遅れたと思います。1983年12月にソフトハウスの社長さんが集まった忘年会がありまして、私も部長や社長に連れて行かれて参加しました。ハドソンがファミコンに参入することは知られていたのですが、その時にパソコン業界の社長さんから「何でおもちゃ行っちゃうの?」と言われました。ただ、その言ってた会社が、翌年にハドソンが『ロードランナー』を発売した次の月に参入を決めたので、よほどファミコンソフトの売り上げがすごかったんだと思います。

 1984年7月に『ナッツ&ミルク』、そして『ロードランナー』を発売しました。当時は任天堂さんの工場でロム(カセットのこと)を作らなければならず、販売する前にロイヤリティを払わなければなりませんでした。そこで、今はない拓銀(北海道拓殖銀行)に、個人融資ということでハドソンの社長が30万本分のお金を借りました。売れなかったら多分つぶれるという形です。

 任天堂さんの場合は「初心会」という問屋があるのですが、全国を営業担当の専務と一緒に回って説明していきました。初心会では「おたくは任天堂さんじゃないのにゲームを出していいのか」と全問屋さんから問われました。まだ、サードパーティ※という言葉がなかった時です。クローズの世界だったんです。「参入すること自体が大変だったな」と思っています。

※サードパーティ……他社のOSや機器などに対応する製品を作っているメーカーのこと。

 『ロードランナー』は販売本数が100万本を超えました。ハドソンが今までに出したファミコンソフトは36タイトルありまして、4本が100万本を超えたソフトになっています。ちなみに一番最後のファミコンソフトが『高橋名人の冒険島4』というソフトです。スーパーファミコンが発売されて3年くらい経っている時に営業から、「今はまだファミコンのソフトが店に並んでいる。今出したら、まだちょっと売れるんじゃないかな」ということでいろいろ探しました。コンテンツを出すためには権利関係の問題があるので、ハットリくんを出すとか、ドラえもんを出すというわけにはいきません。そうするとハドソンで権利関係なく出せそうでいいコンテンツ、ということで高橋名人の冒険島になったのです。販売本数は数万本と少なかったので、おかげ様で今、中古屋では高くなっているようです(笑)

ハドソンが発売したファミコンソフト一覧。黄色になっている4タイトルの販売本数が100万本を超えている

秘密は半分隠しておく

高橋 こうしてハドソンはファミコンの世界に入りました。そして、1985〜86年に大ブームとなったわけです。その渦のど真ん中に、どうも押し込まれた感じで私が入ってしまったので、なかなか第三者的にブームを振り返ることができませんでした。今回こういうお話をいただいて、いろいろ調べてみると、本当にいろいろな事がスパゲティ状態になっていまして、時間軸で全部話していっても分からなくなりますので、基本的な事柄を中心に説明させていただいて、最後にそれが全部まとまっているんだよという形で締められればと思います。

 まずは雑誌社さん(小学館の『コロコロコミック』)との提携、ハドソンとしてはこれが非常に大きなアクションでした。1984年7月に『ナッツ&ミルク』を発売してから動き始めました。「なぜコロコロさんと組むことになったのか」といいますと、実はここでは言えないくらい他社さんにもアタックをかけていました。護国寺のあたりの会社小学館の隣にある会社にも当然声はかけています。ところが、すぐ「一緒にやりましょう」と返ってきたところがコロコロさんだけだったのです。

 当時の宣伝部役員の大里(幸夫氏)が私に「コロコロとやるから。逆にコロコロとしかやらないから」と言って、それから私の一番の仕事は、週5日のうち5日間はコロコロ編集部に通うことになり、それが約1年くらい続きました。コロコロではちょうど『ゲームセンターあらし』が終わって、「新しいマンガを立ち上げたい」という時期でした。そして出てきたのが『ファミコンロッキー』というマンガです。当時の子どもたちは“ウソテク”と言っていたのですが、ゲームに本来入っていないテクニックでマンガを作るというウソの世界でした。正しいのは題材に使っているソフトのタイトルだけです。ハドソンのゲームからは『バンゲリングベイ』というゲームが題材となり、「謎の大陸が浮上してくる」という内容だったのですが、当時のメモリ容量でそんなことできるわけがありません(笑)

 この時のコロコロさんの基本的な考え方として、「テクニックはそのまま出さない」というのがありました。「秘密は半分隠しておく」、子どもが見つける楽しみを残しておくんですね。今はインターネットがあるので、ある裏技ができたらすぐに広まります。でも昔、(司会の)遠藤雅伸さんが作った『ドルアーガの塔』がゲームセンターにあった時、「あそこのゲームセンターで17面クリアしたやつがいたんだって」という話が出ると、みんなで行って何とかメモを見せてもらおうとするんですけど、なかなか見せてくれないんですね。そのうち「50面までの秘密」のような冊子が1000円くらいで売られたりしました。パソコン通信だってない時代です。ですから、あの当時は子どもが裏技、隠しキャラを見つけると、それだけでヒーローになれたんです。だから、「ヒーローになるための芽は残しておきたい」というのがあったんですね。そこでほんわかとオブラートに包んで裏技や隠しキャラを発表するのですが、「ちゃんとした見つけ方は発表しない」というのが当時ハドソンとコロコロが決めた協定でした。

公開講座の司会を務めた遠藤雅伸氏

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