学生時代から好きだった俳優の世界で地道にやっていこうと決意した河原さんだったが、「レストランバーをやってみないか」という思いもかけない誘いを受ける。子どものころから料理を作り、家族が喜んでくれる顔を見るのが何よりも好きだった河原さん。とはいえ芝居の世界で生きていくと決意した直後だっただけに、ずいぶん悩んだが、最終的にこの話を受諾する。
「この店で自分の役を演じようと思ったんですよ。飲食業は演劇だと」
こうして1979年秋、博多駅近くに河原さんにとって最初のお店となるレストランバー「AFTER THE RAIN」がオープンした。そして、このお店は空前の成功を収めた。
「『今いるところが最後の砦』と覚悟し、芝居の経験を生かして全力投球のパフォーマンスをしました。例えばウォッカを1本空けて、ヘベレケになって裸で走り回ったり、床で水泳の真似事をしたり……。これらが受け、連日、若者が詰め掛けたんですよ(笑)」
オープン時の目標は順調にクリアし、若いながら年収1000万円にも達したという。
「でもね、いつまでもこんな酔いどれの生活を続けていていいんだろうか、という疑念や焦りが頭をよぎるようになったんです」
そんなときにひらめいたのがラーメン店の開業だった。当時、福岡のラーメン店は豚骨が放つ強烈なにおい、無愛想で感じの良くない接客、清掃をあまりしていない不潔な店内というのが一般的。またそういう店ほどうまい、という常識が存在した。しかし一部の熱心なラーメンファンには支持されるが、どう考えても万人受けはしない。特に若い女性は「臭い・怖い・汚いの3Kだ」と言って寄り付かなかった。
「だったらレストランバー感覚の、女の子が1人でも安心して入れるようなキレイなラーメン屋を出せば、きっと喜んでくれるに違いないと確信したんですよ」
河原さんは長浜ラーメンの繁盛店で1年間修行を積み、日本全国のラーメン店の食べ歩きをした上でお店を開業する。
「停滞していた福岡、そして九州のラーメン界に一陣の風を吹き込みたい、時代の変化に即した変革を起こしたい、という気持ちが強くありました」
だから店名も「博多 一風堂」にした。店舗のデザイン、商品(コンセプト・製法・食材)、接客サービス、クレンリネス(店内外の掃除)――いずれも当時の常識を打ち破ったものだった。そして1号店は1985年10月、福岡市の大名に静かにオープンした。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.
Special
PRアクセスランキング