覚せい剤中毒からどのようにして更正できたのか?――杉山裕太郎さん(後編)嶋田淑之の「この人に逢いたい!」(4/6 ページ)

» 2009年10月16日 11時00分 公開
[嶋田淑之,Business Media 誠]

歌で人を救うという夢を実現するために上京

2008年8月、渋谷のライブハウスにて。バックバンドスタイルのライブ

 「ヒッチハイクとかして東京にたどり着き、池袋を歩いていたら、何となく岐阜に似ているなあという感じがあって、池袋に住むことにしました。仕事は、時給1100円で看板持ちの仕事をしましたが、なかなか時間が経たないのが辛くてサボッていたら、会社の人に見つかってクビになりました」と苦笑する。

 その後、芸能人が出入りするような六本木の店でバーテンをしていた杉山さんだが、ボイストレーナーに恵まれて思い通りに声を出せるようになり、店で歌うようになったという。しかし、夜の生活は心身を消耗させる。彼は昼間の仕事に就くことを決意する。

 「外資系金融機関のコールセンターに、派遣で行って、支払い督促の電話を中心とする業務を担当しました。時給が1300〜1500円と高い上に、敬語を使えるようになり、私にとってとても良い社会訓練になりました。それが現在の仕事にも大いに役立っています」

 このコールセンターという職場、芸能系で世に出ようとする若手にとっては、格好の仕事先のようだ。

 「そうなんですよ。シフトの自由が利きやすく、時給も高いということで、若手のタレントとかもたくさん来ていて、そこで、芸能関係の人脈ができていったんです」

 コールセンターに週3〜4日通いながら、同時にボイストレーニングを受けたり、自分もボーカルの先生をするなどしていた杉山さんにやがて声がかかった。

 「2006年の終わりころ、CDを出そうという話になったんです。私のオリジナル曲を自分で歌うということなんです。コールセンター人脈がブレーンになってくれてCD制作を始めまして、2007年6月、インディーズではありますが、シングルを出しました。そしてありがたいことに、昔関わっていた岐阜の会社や友人、ファンの人が一気に買ってくれたので、1000枚はすぐに完売しました」

 CDの制作を機に、まず地元の岐阜でライブをやるようになった。それは地元紙にも取り上げられ、「“ヤンキー歌手”初の地元ライブ」「希望失った人に歌で勇気を」などの見出しが躍った。

 やがて、そこから派生して、今度は岐阜県内の青少年健全育成団体からの要請で、青少年問題、親子の絆などのテーマで講演もするようになっていった。こういうテーマは話だけではキツイということで、講演+歌という組み合わせでやるようになったら、それが好評を博した。

 「講演というか語りの部分では、親子関係を中心に、非行に走り覚せい剤におぼれていった自分のヒストリーを語ります。そして『本気で伝える』ことの大切さを訴えるんです。

 そしたら、それが県の青少年問題を扱っている上層部の方々の目に留まって、県内各地で講演するようになりました」(講演実績と今後の予定参照

 こうした活動の結果、地元のラジオ局でパーソナリティを務めることになり、スポンサー企業も付いて、杉山さんの番組がスタートしたのである。2008年のことである。

 「番組内容としては、リスナーの悩み相談、薬物問題、ゲストと人生談義などです」

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