第22鉄 駅マンションに新撰組――“情報の秘境”流山線をゆく杉山淳一の +R Style(4/5 ページ)

» 2009年12月29日 12時52分 公開
[杉山淳一,Business Media 誠]

 うっすら日暮れ時の流山を歩く。新撰組の陣屋跡はすぐに見つかった。鉄道ファンにとって流山は「流鉄が走り、つくばエクスプレスも開通した町。東武野田線や武蔵野線もあって便利だね」という認識だ。しかしここは、水運が盛んな江戸時代に大発展を遂げた土地。醤油や酒、みりんなど、重い荷物を出荷する醸造業で栄えた。商売で発展したから金持ちも多く、幕末は商人たちがさまざまな思惑で各陣営に軍資金を支援したかもしれない。

 流山の金持ちといえば、流鉄の出自も珍しく、地元の名士たちがお金を出し合って作った軽便鉄道だ。政府や大資本がドンと作ったわけではない、地元資本でできた独立系鉄道会社。「鉄道作ろうや、お金を集めよう」というわけで、流山の旧家には流鉄の出資者がたくさんいるらしい。そんな経緯から、尊敬の念を込めて流鉄を「市民鉄道」と呼ぶファンも多い。

 話を幕末に戻そう。甲州の戦いに敗れ、盟友とも袂を分かった近藤勇と土方歳三は、再起をかけて流山にやってくる。その噂を聞きつけて、賛同者が集まってくる。しかし、すでに大政奉還後のこと。その勢いは官軍も引き寄せてしまった。大久保大和を名乗った近藤の身柄は、ここで官軍に渡されてしまう。これ以上、流山の支持者に迷惑を掛けられぬと、自ら身を差しだしたという説もあるそうだ。

近藤勇の陣屋跡。ここで大久保大和の名前で官軍に自首し陣を解いた。流山を戦場にしたくないという意思があったと伝えられている(左)。新撰組が分宿した長流寺。この付近の寺社に隊士たちは身を寄せて戦いに備えた(右)

 新撰組陣屋跡の道をさらに南へ。江戸川に沿い、三郷方向へ歩いていく。庚申塚がいくつかあって、キッコーマンの工場があって……。かつてこの道を近藤勇も歩いたのかな、と思いを馳せてみる。光明院、赤城神社も新撰組隊士が駐在したところだ。暗くなってしまったけれど、お参りだけさせていただく。

鎌倉時代の創建という赤城神社。流山の町を見渡せる

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