仕事で自己実現ってホントにOK?――社会学者、鈴木謙介氏インタビュー(中編)2030 この国のカタチ(5/6 ページ)

» 2010年04月30日 00時00分 公開
[乾宏輝,GLOBIS.JP]

進む家族の内閉化と偽装化

 くじを判断する時に、仕事の外側に「このために仕事をしているんだ」という軸みたいなものがないと、何か客観的に判断できないような気がするんですね。よく言われる話ですけれども、例えば欧州の人なんかは、すごく地元のつながりを大切にしていて。すごく優秀な人とかでも「俺はもうこいつらと酒飲んでバカ騒ぎする時間が毎日とれる限りで仕事にコミットするよ」と。うまく言えないんですが、仕事の外側の視点がちゃんとあるんです。日本の場合、そこがすっぽり欠け落ちてしまっている感じがするんですが……。

鈴木 欧州の場合はもともと領邦性から国ができていますから、地域主義が強いのは当たり前で、地域社会があって国っていうシステムだし、米国っていうのはもともと自治の伝統を重んじますから、国っていうのはあくまで自治体が連合してやっているだけ、合衆国ですから。まあそういうイメージですよね。

社会学入門―人間と社会の未来』(見田宗介著)

 「日本では地域の絆が薄くなっている」と言われていますが、ここには2つの要因があります。1つは、社会学者の見田宗介さんを始めとして多くの人が指摘していることですが、高度成長期に都会に出てきて核家族を形成した人たちにとって、「マイホーム」が失われた家郷の代わり、地元になってしまったんですね。だからこそ、安定した仕事で得た給与は家に入れ、そのカネで家庭の中にたくさんの耐久消費財を入れていくことが、「豊かさ」の内実だった。

 そういう人たち向けにサービス産業が発達しますから、郊外の住宅地のように、地域の絆が非常に薄いところでも、家を買って暮らしていくことが可能だった。つまり、お金を背景に、地域の協力ではなくて、そうした地域から解き離れて、「お家」という小さな地元をつくる。そういう仕組みを理想としてきたということがあります。

 その背景には、日本の国土開発の特殊性があります。「地域を作るのではなく、住宅地を作る」という発想のもと、1970年に千里ニュータウン、1971年に多摩ニュータウンがオープンし、第1期入居が開始します。ここから宅地開発というものが急速に進んでいく。1960年代は団地でしたが、1970年代になると本当に家しかない郊外の住宅地というものが、だだっぴろく広がっていくことになった。

 地域から切れて、マイホームを作るのが理想だと考えている限りにおいては、人々の価値観というのは、地域ではなくて家族の方に内閉化、内側に閉じていかざるをえなくなります。日本人に、「一番大切なものは何ですか」と聞くと、この30年ずっと家族が1位で、今本当にダントツ1位で家族なんですけれども、多くの日本人が「家族は大事だ」ということを考えるようになっている。

 また、その家族の内実も、経済的な支えというよりは、精神的な充足を得られる関係だという風に考えられているようなんですね。

 このデータについていえば、いろんな解釈の仕方があります。家族がそうした形で内閉化してくると、お金がない家族は非常に厳しい立場に立たされることになります。例えば、子育てに関しては、「お金があるか、地域や親類縁者のサポートネットワークがないと、子どもを育てるのは難しい」と言われています。しかし、貧しい家でお金がない状況で、「家族というものは自分で守るものだ」という話になってくると、お母さんが夜中まで働きながら、かつ子どもの面倒もみなければならない、それがあるべき家族の姿だとなってしまう。

 つまり、「地域から切れたマイホームをつくる」という理想が、もともとお金がたくさんあるという前提でしか機能しなかった。前提が崩れたとたん、機能しなくなり、家族が様々な負担を背負い込むような形となってしまったというわけなんです。

 さらに、「家族が大事」というデータと反して、家族と過ごす時間というものが短くなっている、「家族と過ごす時間が十分にとれない」と考える人が増えているというデータもあります。つまり、多くの人が「家族は大事だ」と思っているけれども、現実の家族とはあまり一緒にいないという不思議な状況が生まれているんですね。

 僕は、家族の内閉化と並んで、“家族の理想化”ということだと思っています。つまり、今、人々が家族という言葉で連想するのは、家族の“ような”関係のことであって、現実に血のつながっている人たちのつながりではない。それ以上の理念的な何かというものになっている。

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