学校の服装規定なども同じです。制服を義務化し、さらにスカート丈は●センチなどと決めてしまえば、服装指導は非常に簡単です。
もし規制緩和が行われて「高校生らしい服装であれば、制服でなくても可」というルールに変わったら、適切な監督をするためには「本当にこれでよいのか?」という議論が必要になります。
また、お金持ちの子どもがブランド物づくしの格好で登校するかもしれません。「これでは貧しい家の子どもがかわいそうだ。だから、全員制服に戻すべき」と規制強化論者は主張するでしょう。
貧しい家の子が洋服を万引きし、「●●ちゃんみたいなかわいい洋服が欲しかった」と言えば、彼らの鼻息はいっそう荒くなります。「だから言わんこっちゃない。規制緩和なんてするからだ!」と。
確かに「子どもに貧富の差を感じさせるな」というのは、きれいで通りのよい主張です。しかし学校の中だけ貧富の差を隠して、社会の現実から子どもを目隠しして何の意味があるのでしょう? ブランド物をひけらかすようなことについても、他者からそれがどう受け止められるか、学ぶ機会を早めに得ることは重要です。
同時に「何が高校生らしい服装なのか?」ということを先生や生徒、親が話し合えば、異なる価値観の理解や世代間の理解が進むチャンスにもなります。
規制を緩和し、自由度を大きくすることで人は考えるようになり、実社会で生きていく術を学びます。自由な発想が生まれ、お金がなくても工夫する方法を考えるし、自分に手に入らないものがある時に、どんな方法でその気持ちを解消すべきかと思考します。自由化によって生じるさまざまな問題の解決方法を考えること、それこそが重要な教育です。
制服を廃止して、何か問題が起こった。「だから制服を再度義務付けよう」というのは、問題解決を避ける「退化の思考」です。「交通事故を起こしたから、クルマの使用を廃止しよう」というような世界は進歩できません。「どうやったら事故を防げるか」を考え続けてきたから世界は進歩してきたのです。「監督が無理だから、規制を強化しよう。全部やめてしまおう」というのは「後ろに向かって走る道」です。
原子力発電についても、福島第1原発の事故で「原子力発電自体をやめるべきだ」という意見もみられます。しかし、たとえそれが最終的に国民の総意になるのだとしても、「問題があるから一切やめるべき」という論法を簡単に支持することは、ちきりんにはできません。
問題の大きさに目を背けることなく、その問題をどうすれば克服できるのか、必死で考えて行くことこそが社会と技術の進歩を支えていると思うからです。
そんじゃーね。
兵庫県出身。バブル最盛期に証券会社で働く。米国の大学院への留学を経て外資系企業に勤務。2010年秋に退職し“働かない人生”を謳歌中。崩壊前のソビエト連邦など、これまでに約50カ国を旅している。2005年春から“おちゃらけ社会派”と称してブログを開始。著書に『ゆるく考えよう 人生を100倍ラクにする思考法』がある。Twitterアカウントは「@InsideCHIKIRIN」
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