国家百年の計を持て――元塾頭と卒塾生が語る松下政経塾の理念とは(2/3 ページ)

» 2011年09月29日 16時30分 公開
[堀内彰宏,Business Media 誠]

成功要因は松下氏の思いと時を得たこと

樽床 松下政経塾では第3期生になる樽床です。今、上甲さん、我々は塾頭と言った方が言いやすいのですが、上甲さんの方からお話があった、「松下グループが支援をしない」という方針は私には非常に感慨深い言葉としてお聞きしました。

 なぜなら私はこれまで7回衆議院選挙を戦いましたが、その最初の2回は松下グループと全面対決したからです。松下グループのほとんどの人は、私が出ることに大反対しました。その中で幾人かの方、それから当時塾頭の上甲さんが反対されなかったことは大変ありがたく、今でも感謝しています。

 なぜそういうことになったかというと私があえて敵対行動をとったわけではなく、私が住んでいる地域から出ておられる現職の方(中村正男氏)が松下グループの組織内議員だったからです。その2回の全面対決のうち、最初は大惨敗しました。2回目で両方が通りました。当時、中選挙区制度だったので、ともに通ることでその対立が解消したわけです。

 この話をし出すと時間がかかるので省略しますが、結論としては私が30歳になるかならないかの時に最初にぶつかった山が、松下政経塾というところで学んだ者にとっては一番大きな山であったということがその後幸いしていると思っています。なぜなら、最初に一番高い山を登れば、その次の山はそう高くは感じないということであるからです。

 ただ、この経験は松下政経塾の中では、私の特異な経験です。みんなこのような経験をしたわけではありません。つまり何が言いたいかというと、松下政経塾で学んだ人間はのべ200人いますが、全員違うということです。「みなさん方が会われた塾生によって、松下政経塾のイメージはまったく違う」と申し上げたいです。

 私は第3期生、野田総理は第1期生で、初期のころの塾生ですが、「我々の時に松下政経塾の中でいったい何をしていたのか」と聞かれても、なかなか答えにくいという状況があることをご理解いただきたいと思います。

 先ほど上甲さんがおっしゃったように、私たちが松下政経塾に集った時、教えられる側は何をしていいのか分からない、教える側も何をしたら政治家を作れるのか分からない。不安の中でただ暗中模索していた、そんな5年間であったように思います。

 ただ年月が経つと、先輩たちがやってきたことの中でうまくいったこととうまくいかなかったことがだんだん明らかになってきます。そうすると当然、うまくいったことをやろうということになります。ですから、後になればなるほど、カリキュラムがしっかり整備がされてきました。ここまで言っても、みなさん方は「何となくよく分からないなあ」と思われると思うのですが、実際説明するのも大変なんです。

 総理が出て、外務大臣が出て、前原(誠司)君や私がいろいろやっているという状況を見て、みなさん方は松下政経塾に関心を持たれたと思います。それはある種の成功と言えばそうかもしれませんし、今、上甲さんがおっしゃったように「こんなものは成功ではない。まだまだこれからだ」ということもその通りであります。しかし、まだ道半ばであっても、ここまで来れた要因について2点だけ、私の意見を簡単に述べます。

 それは松下政経塾に集った私たちひとりひとりの塾生が、能力があったり、見識が高かったり、さまざまな資質があったからではないと思っています。我々のような資質を持っている人は世の中にたくさんおられると思います。ですから、我々が良かったのではなくて、「松下幸之助という創業者の思いが強かった。そして、その人に触れることができた」ということが第1点です。

 私が在塾していた時、松下幸之助さんは一般的には車いすで移動されていました。それは高齢だったからです。しかし、松下政経塾の敷地の中では一切車いすには乗らないスタイルでした。みんなが心配して、「もし、つまづいて倒れでもしたら大変だ」と車いすを勧められたと聞いていますが、「自分の思いを託す若い人たちの前で車いすには乗れない」と、断固としてそれを拒絶されたと聞いています。もう言葉があまり出ない状況であったわけですが、そういう思いは我々に当然空気のようにしみ込んできたと私は思っています。

 2つ目は「時を得た」ということです。先ほどお話があったように、(松下氏は)松下政経塾を実際に作る以前からそのようなお気持ちを持っておられたのですが、いろんな人の反対で実現しなかった。実現したのがあの時だった。私はこれはまさに時が味方をしたんだろうと思っています。かつて幕末に吉田松陰が松下村塾を作り、わずか短い期間でありましたがそこで学んだ人たちが、維新のころに年齢的に活躍する年代になっていたことと同じ現象だと私は思っています。

 私は日本の戦後の大きな曲がり角は1990年前後だと思っています。世界では東西冷戦が終わり、ソ連がなくなり、世界の秩序が変わった。そして日本でもバブルが崩壊して、右肩上がりが収束し、そしてもう今すでに人口減少時代に入っていますが、その兆候が出た。内外ともに大きな曲がり角だったのが、そのころだったと思っています。

 ですから日本でも、一瞬ではありますが細川連立政権という1つの区切りを迎えたわけであります。その後いろいろありまして、自公政権などが10年以上続きましたが、あの時代の曲がり角からずっと物事が流れてきていると私は認識しています。あの1990年過ぎ、政治の中に新しい若い力が入ってこざるを得ない、また入っていくべきという時代の要請があったんだろうと私は思っています。そして、松下政経塾で学んだ初期の我々が、ちょうどその時に30歳前後になっていたと。こういう時の巡り合わせが大きかったのではないかと私は思っています。

 それまでは何もない私たち(のような人)が国政に出ることはほぼ不可能でしたが、今では普通に語られる時代になりました。その最初の時期に、たまたま松下政経塾で学んだ人たちが1つの塊としてあったということだと私は思っています。

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