善人でさえ救われる。悪人ならなおさらだ――『歎異抄』から企業理念を考えるMBA僧侶が説く仏教と経営(1/3 ページ)

» 2012年08月22日 08時00分 公開
[松本紹圭,GLOBIS.JP]

松本紹圭(まつもと・しょうけい)

1979年北海道生まれ。浄土真宗本願寺派光明寺僧侶。蓮花寺佛教研究所研究員。米日財団リーダーシッププログラムDelegate。東京大学文学部哲学科卒業。超宗派仏教徒のWebサイト「彼岸寺」を設立し、お寺の音楽会「誰そ彼」や、お寺カフェ「神谷町オープンテラス」を運営。2010年、南インドのIndian School of BusinessでMBA取得。現在は東京光明寺に活動の拠点を置く。2012年、若手住職向けにお寺の経営を指南する「未来の住職塾」を開講。著書に『おぼうさん、はじめました。』(ダイヤモンド社)、『「こころの静寂」を手に入れる37の方法』(すばる舎)、『東大卒僧侶の「お坊さん革命」』(講談社プラスアルファ新書)、『お坊さんが教えるこころが整う掃除の本』(ディスカヴァー21社)、『脱「臆病」入門』(すばる舎)など。


 「善人なほもって往生をとぐ、いはんや悪人をや(善人でさえ、救われる。悪人ならば、なおさらだ)」

写真は『歎異抄複製』(本願寺出版社)

 鎌倉時代後期に唯円によって書かれたという仏教書『歎異抄』に出てくる親鸞の有名な言葉です。親鸞は浄土真宗の宗祖、唯円はその弟子です。教科書にも出てきますので、聞いたことのある人も多いのではないでしょうか。

 「あれ、善人と悪人が、逆じゃないのかな?」と思わせるこの逆説的な言葉にひかれて、親鸞ファンになる人も少なくありません。常識で考えれば、善人こそが救われて、悪人はその罪に相応の罰を受けるべき。では、親鸞の言葉の真意は?

 自分の力(自力)で善を積んで救われようとする人は、阿弥陀仏の力(他力)にすべてをお任せする心が妨げられて、かえって救いから遠ざかってしまうというのです。この言葉から、まず「自分のことを善人であると信じているうちはダメで、自分の悪いところや至らないところを自覚することが大切なんだ」という教訓を得ることができます。

 人は誰しも、自分が可愛いもの。いつも自分は正しい、自分は悪くないと思っている。他人から間違いの指摘や改善のアドバイスをもらっても、素直に聞き入れることがとても難しいものです。ましてや組織の中で成功を重ねた人が、社長やCEOなどトップマネジメントへのぼりつめるとどうなるか。意見をしてくれる人もいなくなりますし、なおさらその傾向は強まります。そういう時こそ、危険。「常に私は正しい」という“うぬぼれ”が心の中に忍び込んできます。そんな時には「いはんや悪人をや」を思い出し、心を戒めること。そうして、「実るほど頭を垂れる稲穂かな」の哲学、経営用語でいうところの「理念(バリュー)」を取り戻すというわけです。

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