1967年東京都生まれ。信州大学経済学部卒。1989年アスキー入社、パソコン雑誌・ゲーム雑誌の広告営業を担当。1996年にフリーライターとなる。PCゲーム、PCのカタログ、フリーソフトウェア、鉄道趣味、ファストフード分野で活動中。信州大学大学院工学系研究科博士前期課程修了。2008年より工学院大学情報学部情報デザイン学科非常勤講師。著書として『知れば知るほど面白い鉄道雑学157』『A列車で行こう9 公式ガイドブック』など。公式サイト「OFFICE THREE TREES」ブログ:「すぎやまの日々」「汽車旅のしおり」、Twitterアカウント:@Skywave_JP、誠Styleで「杉山淳一の +R Style」を連載している。
子どもの頃に教室で学んでもサッパリ分からなかった事柄が、大人になって、あるきっかけでスッキリと理解できる。そんな経験はないだろうか。私の場合はそれが英国の王室、日本の皇室だった。どちらも民主主義国家で、政治の実態は議会が握る。しかし王がいる。象徴的な王族の存在ってどういうことなんだろう、と思っていた。
そのモヤモヤした気持ちを晴らしてくれたきっかけは、北方謙三氏の小説『三国志』だった。その序盤に「国には中心が必要だ」というくだりがあった。なぜ劉備玄徳(りゅうび・げんとく)は自らを頂点とせず、漢王朝を建て直そうとしたか。それは、広大な大陸の人々にとって、戦争の覇者よりも、伝統の血筋に支えられた中心が必要だからだという。ああ、そうか、と私は納得した。三国志だけではなく、すべての社会にとって中心が必要だ、と。
社会や組織で生きる人々にとって、共有できる「拠り所」が必要だ。精神的にも、位置的にも。これは理屈ではない。家族にも中心となる人がいて、一族にも本家と分家があって、そこを仰ぎ、手本とし、従い、あるいは勇気を出して申し立てる。こうして社会は成り立ち、改善され、安定する。
王を持たない米国も、人々が大統領という王を作ってまとまっている。大統領選挙がお祭りになり、選挙で中傷合戦を繰り広げても、いったん王が決まれば、大統領を中心として国が成立する。それが米国の強みだろう。
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