なぜ手塚治虫はヒット作を生み出し続けることができたのかアニメビジネスの今(1/5 ページ)

» 2013年02月05日 08時00分 公開
[増田弘道,Business Media 誠]

アニメビジネスの今

今や老若男女を問わず、愛されるようになったアニメーション。「日本のアニメーションは世界にも受け入れられている」と言われることもあるが、ビジネスとして健全な成功を収められている作品は決して多くない。この連載では現在のアニメビジネスについてデータをもとに分析し、持続可能なあるべき姿を探っていく。


 マンガの神様と称されるだけでなく、日本のコンテンツビジネスの基礎を築いた手塚治虫。前回は手塚治虫の創作に影響を与えたと思われる諸環境について言及したが、今回はその資質について述べてみたい。

 →「マンガ・アニメの“神様”――手塚治虫はどのようにして生まれたのか

 手塚にはその資質を表す、いくつかの“伝説”がある。手塚関係書籍から、その断片を挙げてみよう。

  • コンパスよりも正確に丸を描く
  • 定規を使わず、枠線(コマの囲みの線)を正確に描く
  • 絵コンテを描かず、しかも下書きなしでいきなりペン入れをする
  • 他人の数倍の早さでマンガを描く
  • マンガのアイデアが尽きない
  • 40年間、週刊連載を4本持つ
  • しかも4つの原稿を同時進行で、かつ交互に描く
  • 生涯に描いたマンガは15万枚。

 このような手塚の超人的な能力は、どういった資質に支えられていたのだろうか。

 前回述べたように、手塚はマンガ家として最高の環境に生まれ育ったが、それを活用できるだけの天賦の才能があった。少年時代に描いたマンガはもちろんのこと、中学時代に昆虫を描写した細密画は、特別な教育を受けていないことを考えると驚異的なレベルにある。

 ただ、手塚は天賦の才能を持ち合わせていたことは間違いないが、本当に評価するべきはその向上心にあるのではないかと筆者は考える。人気がなくなればたちまち淘汰される大衆文化での激しい競争に勝ち抜くために必要なのは、自分を磨き続ける姿勢である。どれほど才能に恵まれていても、努力を怠ればたちまち脱落してしまうのがプロの世界なのだ。

 手塚治虫が激しい競争心の持ち主であったことを示すエピソードがある。1950年代初期に人気を二分したマンガ家福井英一に対する激しい嫉妬を隠さず、福井が急死した時には「ホッとした」と述べたのだ。それ以降もライバルになりそうな新人が出現すると、大家とは思えぬ過剰反応を示したが、手塚の場合それを自己研磨の原動力にできた。

 1960年代までの成功で築き上げた大家という名声に甘んじながら生きる道もあっただろうが、手塚は決して現状に安住せず常に前進を続けた。これは手塚のモチベーションがいかに高かったかという証でもあるが、それは1つの精神的な才能と言ってもいいだろう。

決してハングリーさを失わない

 手塚は33歳にして長者番付の作家・画家部門1位となり、それ以降も高額所得者の常連となるが決してハングリーさを失わなかった。常にトップに立ち続けるために努力を惜しまず、注目されている映画を見逃さないのはもちろん、寝る間を惜しみながら噂になっているマンガや書籍に目を通す。文学や演劇、音楽、地理歴史まで知らないことはないのではないかと思わせる博覧強記。そして、時には巨匠のプライドをかなぐり捨ててまで新しい表現手法に取り組む姿勢を見ると、手塚にとってマンガ家は“ベルーフ”であったのではないかと思えてくる。

 ベルーフという言葉は一般に「天職」と訳されるが、本来の意味は「招命」である。その意味で手塚治虫はマンガという福音を伝えるために神からつかわされた使徒とも言えるのかもしれない。

 手塚が常に挑戦していたのは、実は自らが創り上げたマンガのデファクト・スタンダードであった。手塚が戦後のマンガの規範を作り上げたことは間違いないが、そこから劇画という新種が出現したのは想定外だっただろう。そして、それが“マンガの元祖”となってしまった手塚を悩ませるのである。

 1960年代、劇画の台頭によって時代遅れと言われ始めた手塚は、一時ノイローゼにかかってしまうほど過酷な精神状況に陥る。そして、今までの手法をかなぐり捨てて劇画に挑戦し、新しい表現を模索するのである。

『ブッダ』

 手塚に限ったことではないが、子どもに向けてマンガを描き続けることは非常に大変な作業である。歳をとれば若者の気持ちや好みが分かっているつもりでいても、ズレが生じるものだ。手塚もそれを認識してか、『ブッダ』(1972年)や『シュマリ』(1974年)などで青年層へ向けた新しい路線に挑戦しヒットさせている。

 しかし、手塚がすごいのは子ども向けマンガも同時期に成功させたことである。1960年代末から子ども向けのヒット作を出せなかった手塚だが、『ブラック・ジャック』(1973年)や『三つ目がとおる』(1974年)で大復活を遂げる。青年向け作品と子ども向け作品を同時にヒットさせたことに改めて脱帽せざるをえないが、このように常にイノベーションを志す姿勢こそ手塚の本質なのである。

 手塚は“成熟”を拒否した永遠の挑戦者であった。常に自分の身を競争の真ん中にさらす勇気と精神力。巨匠が身もふたもなくのたうち回り、苦悶しながら、そこから何度も脱皮する姿を間近で見続けた弟子たちは、その猛烈な仕事ぶりを引き継いだ。石ノ森章太郎も藤子・F・不二雄も一時も歩みを止めることなく限界まで描き続け、師と同年齢の60歳という若さで亡くなった。それは虫プロを中心とするアニメ業界にも引き継がれており、この手塚のDNAが日本のマンガ・アニメの国際競争力の大きな源ともなっているのは間違いない。

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