なぜ手塚治虫はヒット作を生み出し続けることができたのかアニメビジネスの今(2/5 ページ)

» 2013年02月05日 08時00分 公開
[増田弘道,Business Media 誠]

意外と体力もあった!?

 手塚は自分の幼年時代から少年時代にかけて、身体が小さく、よくいじめられる上に運動も不得意であったと書いている。そのため、どうしてもひ弱な感じを受けるが、実は少年期以降の体力は相当なものであった(話を面白くするため、創作している部分が多分にあると感じられる)。

 例えば、生涯スポーツとは縁がなかった割には、北野中学のマラソン大会で「なんと続いて手塚君が入ってきた記憶がある。だから一学年中二百数十人中二十何番かで入ったはずである」(『手塚治虫少年の実像』より)という同級生の証言にある通り、痩身であったが心肺機能はかなり強かったようだ。

 また、手塚が1947年に初めて東京に出て来た時、九段坂から音羽の講談社を経て赤羽の知人を訪ね上野桜木町まで歩き通したとある(直線距離で約17キロ)。昔の人はよく歩いたというが、19歳の若さとはいえ立派な健脚の持ち主である。

 さらに、中年期に入った手塚は「しかし、想像していたより手塚さんは遙かに大柄で、がっしりとして、大きく見えた」(『手塚治虫がいなくなった日』より)という印象を与えていた。実際、身長が170センチ、体重が75キロあったというから、昭和ヒトケタ生まれとしてはかなり大柄だったと言えるだろう。

 手塚の父の粲(ゆたか)は85歳、母の文子は74歳まで生きた。明治生まれとしては長命な方だろう。祖父の太郎も70歳まで生きた。文久生まれということを考えると、こちらも長命と言えるだろう。そんな家系の中で、手塚が60歳で亡くなったのは働き過ぎというより言葉が見つからない。

大変な大食漢

 心肺機能と並んで優れていたと思われるのは、手塚の消化器官である。早い話、食欲がすごかった。スポーツ界では食が細いと大成できないと言われるが、一般的にタフな人は食欲もすごい。手塚もその典型であった。

 「手塚先生は大変な大食漢で、とにかく、しょっちゅう、何かを食べていました。それもボリュームのある脂っこい料理を、もの凄い量、食べるんです」「手塚先生がお蕎麦を食べているところなど、まず見たことがありません。お好みのメニューはカツ丼、天丼、チャーハンと言ったところ」「ガスパッチョという有名なスペインの野菜スープが出たのですが、大どんぶりのような容器になみなみと注がれてきました。並みの日本人なら一杯を飲み干すのがやっと。もうお腹一杯です。それを先生は、おかわりしたうえ、ぺろりと平らげてしまったのです」(『マンガの神様』より)

 「(筆者注:米国のホテルの朝食の)カリカリベーコンとポテトの山盛り、三つ目の目玉焼き、ビックマック大のパン二個、赤ちゃんの頭大のアップルパイを、先生は小振りのジョッキに注がれたオレンジジュースを片手に平らげていた」(『手塚治虫全史』より)

 手塚はこの旺盛な食欲を中年期以降も維持していたが、これが無限とも思われたエネルギーの源泉だったのだろう。寝る間もなく仕事を続けていた手塚は、もちろん運動するヒマもなかった。そういう状況にあっても食欲を維持していけるということは、消化器官がよほど丈夫だったのだろう。

 手塚だけでなく、日本で突出した表現を残した人物は精神面に加えて、体力面でも強靱であった。「ステーキの上に鰻の蒲焼きをのせ、カレーもぶち込んだような、もう勘弁、腹がいっぱいの映画を『七人の侍』で撮りたい」と言った黒澤明は、70歳で『影武者』、75歳で『乱』、80歳で『夢』、81歳で『八月の狂詩曲(ラプソディ)』を監督した。88歳で天寿をまっとうしたが、死ぬ間際まで次回作の案を練り続けていたという。

 また、ノーベル文学賞候補でもあった谷崎潤一郎は65歳で『源氏物語』、70歳で『鍵』、75歳で老人の性を描く問題作『瘋癲老人日記』を執筆した。1970年に79歳で天寿をまっとうしたが、明治生まれとしては相当な長生きである。谷崎も黒澤同様、死ぬ間際まで次回作の準備をしていたが、この両巨匠と手塚治虫に共通しているのは大変な健啖家であること。

 黒澤は牛肉には目がなく、高齢になってもステーキを食べ続けていた。また酒も強く、娘の和子によると「黒澤組の酒豪はホワイトホースの瓶を、すぐさま何ダースも空にする。父と三船敏郎さんだけでも三本はゆうゆうであった」「80過ぎても興にのれば1本の八分目は飲んだ」(『黒澤明の食卓』より)であったそうだ。

 谷崎も「元来が健啖家で、且一升酒を嗜む」(『谷崎潤一郎全集』より)ほどで、それが災いして晩年高血圧症に悩まされた。しかし、長年親しんだ美食の習慣はなかなか捨てられず、体調が良くなるとビフテキを食べたり、酒を飲んだりしていたそうなので、まさに“瘋癲老人”を地で行く老人だった。

 日本を代表する3人の表現者に共通する食欲。体力があったことの証明でもあるが、それは創作において非常に重要なポイントなのである。

 「凡そ文学に於いて構造的美観を最も多量に持ち得るものは小説であると私は信じる」と主張した谷崎は、自然主義全盛時代にあって物語性を徹底的に重視した作家である。谷崎は『饒舌録』で「日本の小説に最も欠けているところは、この構成する力、いろいろ入り組んだ話の筋を幾何学的に組み立てる才能、に在ると思う。だから此の問題を此処に持ち出したのだが、一体日本人は文学に限らず、何事に就いても、此の方面の能力が乏しいのではないだろうか」と述べているが、確かに日本には面白くて一気に読み終えてしまうような構成力に富んだ長編小説は少ないように思う。

 それは、映画やマンガにおいても同じだが、それらを納得いくまで煮詰めるために必要なのは体力である。体力がなければ根気もわかない。前述した黒澤、谷崎、手塚が日本人離れした構成力の持ち主であることは疑いのないことだが、これは彼らが日本人離れした体力を持っていたから成せるわざであったのだ。

 手塚同様に多作で知られ、500冊にもなる全集を残した石ノ森章太郎も「天与の才など技術でカバーできるのに、と思っていた。でも今は違う。才能の八割は、体力である。間違いない。今まで常に仕事が途切れずにこられたのは、才能のおかげではなく大半が体力のさせるワザだったんだと、身をもって実感しているのだから」(『』)という言葉を残している。

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