「人生で道に迷うことは必然」――“道”をめぐる偉人たちの言葉(1/3 ページ)

» 2013年02月06日 08時00分 公開
[村山昇,INSIGHT NOW!]
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著者プロフィール:村山昇(むらやま・のぼる)

キャリア・ポートレート コンサルティング代表。企業・団体の従業員・職員を対象に「プロフェッショナルシップ研修」(一個のプロとしての意識基盤をつくる教育プログラム)を行う。「キャリアの自画像(ポートレート)」を描くマネジメントツールや「レゴブロック」を用いたゲーム研修、就労観の傾向性診断「キャリアMQ」をコア商品とする。プロ論・キャリア論を教えるのではなく、「働くこと・仕事の本質」を理解させ、腹底にジーンと効くプログラムを志向している。


 「道に迷うこともあったが、それはある人びとにとっては、もともと本道というものが存在していないからのことだった」──トーマス・マン著『トニオ・クレエゲル』

 『トニオ・クレエゲル』は、ドイツの文豪トーマス・マン(1929年ノーベル文学賞受賞)の若き日の自画像小説です。

 主人公トニオ(若き日のマン)は2つの気質を合わせ持っている。それは彼の出自が両極端な2つの方向から来たことによる。一方には、領事を務める父から受け継ぐ北ドイツの堅気な市民精神があり、もう一方には、イタリアで生まれた母から授かった開放的な芸術家気質がある。

 トニオは芸術家として立つことを決意するものの、鷹揚さや官能が支配する芸術の世界にどっぷり浸ろうとしても父方の血がそれを嫌悪して許さない。はたまた、ただ誠実に凡庸に生きるという市民的な生活に安住することにも、母方の血が黙ってはいない。この2つの気質の相克の中で、何にもなりきれないでいる自らを「道に迷った俗人」と呼んだトニオの人生は、されど続いていく……。

 人生にもともと“本道”なんてものはない。──トニオが吐露したこの言葉をどう受け止めるか、ここは読者にとって重要な箇所です。

 小説の中でマンはこの後に、(本道というものがないのだから)どんな道を行くのも可能と思えるし、同時に、どんな道を行くのも不可能に思える、というような表現を加えています。私たちは人生において、さまよっているときは往々にして(特に芸術家はそうですが)、強気にポジティブになる時(躁の状態)と、弱気でネガティブになる時(鬱の状態)が交互にやってくるものです。『トニオ・クレエゲル』は、まさに主人公がこの躁鬱の振り子を大きく行ったり来たりする日々を繊細に描いた小説です。若きマンが、その躁鬱の苦悶から安らぎを得るためにたどり着いた一種の諦観──「人生において道に迷うことは必然なのだ」──それが冒頭の言葉です。

 ゲーテも『ファウスト』の中で、「人は努めている間は迷うものだ」と書いています。恐らくマンもこの一文には触れていて、心のひだで共振していたのではないでしょうか。

 私は仕事の上でキャリア形成理論をかじっています。今日の学術的考察においては、「キャリア(職業人生)というものは偶発性に左右されることが無視できない。むしろその偶発性を意図的に呼び込むなかで選択肢を拡げ、キャリアをたくましく形成していくのがよろしい」と指摘する。この分野では有名な『計画された偶発性理論』」(Planned Happenstance Theory)です。

 同理論を提唱する米国スタンフォード大学のジョン・クランボルツ教授は次のように言います。「キャリアは予測できるものだという迷信に苦しむ人は少なくありません。“唯一無二の正しい仕事”を見つけなくてはならないと考え、それをあらかじめ知る術があるはずだと考えるから、先が見えないことへの不安にうちのめされてしまうのです」。(『その幸運は偶然ではないんです!』より)

 確かにこの理論は、私も自身の20余年のキャリアを振り返ってみても、十分理解できるものではあります。ただ、学術的知見として、観念として分かっても、やはり人生の悩みは人生の悩み。現実の自分をどこへ持っていくかは、人生の具体的課題として依然大きく眼前に横たわります。しかし、自分の歩むべき道を容易に定めることができない、その難しさこそが人生を深く、味わい深いものにしているものでもあります。

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