「人生で道に迷うことは必然」――“道”をめぐる偉人たちの言葉(2/3 ページ)

» 2013年02月06日 08時00分 公開
[村山昇,INSIGHT NOW!]
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“他力”によって見えてきた道

 「道」という言葉を耳にするとき、私は反射的に、東山魁夷の描いた作品『道』を思い浮かべます。ただ一本の道が続いていく、それを清澄な空気のなかに情感豊かに描いたあの名作です。東山はこの作品についてこう語っています。

 「人生の旅の中には、いくつかの岐路があり、私自身の意志よりも、もっと大きな他力に動かされていると、私はこの本のはじめの章に書いている。その考え方はいまも変わらないが、私の心の中に、このひとすじの道を歩こうという意志的なものが育ってきて、この作品になったのではないだろうか。いわば私の心の据え方、その方向というものが、かなりはっきりと定まってきた気がする。しかし、やはりその道は、明るい烈しい陽に照らされた道でも、陰惨な暗い影に包まれた道でもなく、早朝の薄明の中に静かに息づき、坦々(たんたん)として、在るがままに在る、ひとすじの道であった」──東山魁夷『風景との対話』

 東山はこのひとすじの道は、自分自身がこれから歩いていく方向の道を描いたと言っています。そしてその道は、“他力”によって見えてきたのだと。彼が言う「他力」は、「他力本願」といった場合に使われるような受け身で依存的な他力ではありません。そうしたひ弱な他力ではなく、死にもの狂いの自力で努力して努力して、そこを超えたところで出会う「おおいなる何か」という意味での他力です。

 2つの世界大戦をまたぐ東山の幼少期、青年期の苦労話は割愛しますが、ともかくも彼は画家として目立った成果をあげられないまま1945年を迎えます。そしてこの年の7月(つまり終戦の1カ月前)、よもや37歳の東山まで召集令状を受け、直ちに熊本の部隊に配属されます。そこでは爆弾を身体に巻き付け、上陸してくる米軍戦車を想定した突撃訓練が行われていました。そんな訓練が続くある日、東山は熊本城の天守閣跡に登りました。そしてその日、そこからみた眺望がその後の運命の分岐点となりました。東山はこのように書いています。

 「私は酔ったような気持で走っていた。魂を震撼させられた者の陶酔とでもいうべきものであろうか。つい、さっき、私は見たのだ。輝く生命の姿を――。(中略)これをなぜ描かなかったのだろうか。いまはもう絵を描くという望みはおろか、生きる希望も無くなったと云うのに――歓喜と悔恨がこみ上げてきた。

 あの風景が輝いて見えたのは、私に絵を描く望みも、生きる望みも無くなったからである。私の心が、この上もなく純粋になっていたからである。死を身近に、はっきりと意識する時に、生の姿が強く心に映ったのにちがいない」――『風景との対話』

 結局、東山はそのまま終戦を迎え、すんでのところで戦場行きを免れました。その魂を震撼させられた体験から2年後、『残照』が日展の特選となり、政府買い上げの作品となりました。私たちが知る日本を代表する風景画家、東山魁夷の誕生はここからといってもよいでしょう。実に遅咲きでした。

 『道』を描いたのはそれから3年後の1950年、42歳のときです。『残照』で高い評価を得て、それで有頂天になるわけでもなく、かといって戦後の激動社会の中で画家としてやっていくことに不安や悲観に支配されるわけでもなく――そこを東山は「明るい烈しい陽に照らされた道でも、陰惨な暗い影に包まれた道でもなく」と表現した――ともかくもただ無心で眼前に現れた道を一歩一歩進んでいきたい、その心象が『道』なのです。つまり東山が言う「早朝の薄明の中に静かに息づき、坦々として、在るがままに在る、ひとすじの道」です。人生の道というものを考える時、東山はこう表現します。

 「いま、考えて見ても私は風景画家になるという方向に、だんだん追いつめられ、鍛え上げられてきたと云える。(中略:人生の旅の中にはいくつもの岐路があるが)私自身の意志よりも、もっと大きな他力によって動かされていると考えないではいられない。たしかに私は生きているというよりも生かされているのであり、日本画家にされ、風景画家にされたとも云える。その力を何と呼ぶべきか、私にはわからないが――」

 「生かされている」や「他力によって」などの言い回しは、私個人、若いころは受け付けませんでした。「人生を動かすのはあくまで自分の能力・努力である。運を引き付けるのも実力があってこそ。自分は自らの意志で生きている」のだと、豊かな時代に育った血気盛んな青臭いちっぽけな自信家はそう思っていました。ところがそれは本当の苦労知らず、本当の自力・他力知らずの感覚だったことを、ようやく40代も半ばを過ぎたあたりから肚で分かるようになりました。

 私も仕事柄、さまざまなキャリア・働きざまの人々を観察しています。そして自分自身もそれなりの歳月を生きてきました。そこから感じることは……

 自力が弱い人は、他力をあてにする。

 自力が強い人は、他力を軽視する。

 自力が突き抜けた人は、“大いなる他力”と出会う。

 そして真摯な気持ちを持った人は、その“大いなる他力”に抱かれながら、“大いなる自力”を発揮するようになる。

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