銀座で“異変”! なぜ26歳の女性が、高級クラブのママになれたのか仕事をしたら“銀座のママ”になった(前編)(2/7 ページ)

» 2015年01月21日 08時00分 公開
[土肥義則Business Media 誠]

夜の銀座の世界に

桃谷優希さん

土肥: バブル経済が崩壊して、20年以上が経ちますが、その間、夜の銀座で破られてこなかった記録があるそうですね。それは「最年少」「最短」のママが誕生しなかったこと。その2つの数字を塗り替えた桃谷さんは大学を卒業して、クラブの世界に入られた。大阪の北新地で1年ほど働いて、その後、銀座に飛びこんだわけですが、不安はなかったですか?

桃谷: 自分が本当に通用するのか、ものすごく不安を感じていました。キャリーバックに仕事道具を詰め込んで、東京駅に到着して、そのまま銀座の街に向かいました。働くクラブは決まっていましたが、どこにあるのか分かりませんでした。歩いている人に「このクラブはどこにありますか?」と聞いて、迷いながらもなんとかお店に着くことができました。夜の銀座とはどういった世界なの? と聞かれても何も答えられない状態で初日を迎えました。

土肥: 右も左も分からない状態だったと。

桃谷: 上も下も分からない状態でしたね(笑)。

土肥: 北新地で1年ほどいて、なぜ銀座で働こうと思われたのですか?

桃谷: 北新地では、老舗のクラブ「城」(現在は閉店)というところで働いていたのですが、その店のオーナー・木下功会長にこのように言われました。「お前は一番になれる人間だ。水商売を始めるのであれば、中途半端で終わってはいけない。絶対に“てっぺん”をとらなければいけない。そのためには努力を惜しんではいけないぞ」と。

 ある日、帰りのタクシーをご一緒させていただいたとき「実を言うと……オレは銀座で旗をあげたかったんだ」と打ち明けてくれました。しかし、その3日後、静かに息を引き取られました。

 「北新地で知らない人はいない」と言われるほど木下会長は有名でしたが、銀座では成功することができませんでした。ホステス経験のない私を育ててくれて、期待もかけてくれて。もし自分が銀座で“てっぺん”をとることができれば、彼の供養になるかもしれない……。そんな想いもあって、上京しました。

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