「結婚するなら東電社員」だったけど……原発城下町住民のいま:東日本大震災ルポ・被災地を歩く(4/4 ページ)
福島第一原発の事故前、原発城下町の双相地区では安定企業であることから「結婚するなら東電社員」と言われていた。しかし、事故を経て、原発で働いていた人たちの東電に対する意識も変化しているようだ。
学校再開は9月1日になってから
富岡第一小は第二小と第一中、第二中とともに9月1日、郡山市北東の三春町の工場敷地内にある管理棟を間借りして再開した。しかし戻ってきたのは、もともとの児童数400人をはるかに下回る18人だけ。あとはいわき市、郡山市内の小学校を中心に転入することとなった。また、18人では人数が少ないため、第二小の児童24人と一緒に授業をすることになった。
「学校を再開するまでは、児童を確認し、心のケアにあたることになった。いじめられたという話は聞かない。ただ、離れた地域では1人しか富岡の子どもがいないために、打ち解けないでいることはあった。そうした児童には教員が対応していた。ただ、転入先が広範囲だったために、すべての子どものところに行くことは不可能だった」(八島校長)
7月を過ぎると、郡山市内で学校の立ち上げについての協議が始まった。その結果、町役場が三春町へ移設することになったこともあり、「学校も三春町で」となった。初めは廃校を探したが、結果として現在の工場の管理棟になった。管理棟内部の工事も8月になってから始まり、9月1日の再開には、教室だけが何とか間に合った。学校給食は、給食室の設備がないために、町内の弁当屋から調達している。
「特技のある子どもたちは、新しい学校でも順応したようです。そのため、この学校に戻って来たのは、今までの子どもたちと一緒に学校生活をやっていきたい子、新しい環境ではなじめなかった子が多いですね。子どもたちの希望で来たのが多いようです。最近はぽつりぽつりと戻って来ていますが、爆発的に増えることはないと思う。最初は『本当にできるのか?』と思っていたのですが、何とか間に合った、という感じです」(八島校長)
少人数なので、子どもと丁寧に接する時間が長くなることはメリット。これまでよりも、ひとりひとりを大切にしていけるという。また、学校行事はなるべくやっていくことを考えている。原発事故で振り回された学校は、ようやく落ち着きを取り戻しつつある。しかし、原発事故はまだ収束していない。
渋井哲也「東日本大震災ルポ・被災地を歩く」バックナンバー
→東日本大震災ルポ・被災地を歩く:3月31日の卒業式――福島県相馬市立磯部小学校
→東日本大震災ルポ・被災地を歩く:南相馬市、原発20キロ圏内に入る(前編)
→東日本大震災ルポ・被災地を歩く:南相馬市、原発20キロ圏内に入る(後編)
→東日本大震災ルポ・被災地を歩く:原発20キロ圏内、さらに奥へ――福島第一原発を目指す
→東日本大震災ルポ・被災地を歩く:冠水、悪臭、ハエ――震災から3カ月、被害が拡大している現実
→東日本大震災ルポ・被災地を歩く:震災から3カ月、南相馬に住むということ
→東日本大震災ルポ・被災地を歩く:原発事故でも「相馬魂」は消えない――東北六大祭り・相馬野馬追と一時帰宅
→東日本大震災ルポ・被災地を歩く:避難所から仮設住宅へ――被災者の姿を追う
→東日本大震災ルポ・被災地を歩く:原発から14キロ、浪江町のエム牧場で生き続ける動物たち
→東日本大震災ルポ・被災地を歩く:原発から20〜30キロ、住み続ける決断をした人々の声を聞く
関連記事
- 東日本大震災ルポ・被災地を歩く:原発から20〜30キロ、住み続ける決断をした人々の声を聞く
9月30日に解除された緊急時避難準備区域。原発20〜30キロ圏内で、計画的避難区域ではないこの地域。住み続ける決断をくだした人々の声を聞きに行くと、それぞれの思いがあった。 - 東日本大震災ルポ・被災地を歩く:寒さをどうしのぐか? 被災地に再び冬が来る
冬の終わりに発生した東日本大震災から8カ月、被災地では再び冬を迎えようとしている。仮説住宅の寒さ対策をどうするか、ボランティアの減少など、被災地では課題が山積しているようだ。 - 東日本大震災ルポ・被災地を歩く:原発から14キロ、浪江町のエム牧場で生き続ける動物たち
福島第一原発の20キロ圏内は現在、警戒区域に設定されており、通行許可証がないと入れないようになっている。だが、そんな場所であっても、原発から14キロ地点にあるエム牧場では、毎日餌を与えていることから肉牛たちが生き残っていた。
Copyright © ITmedia, Inc. All Rights Reserved.