第4回 本部からの呼び出し奇跡の無名人たち(2/2 ページ)

» 2008年09月10日 08時30分 公開
[森川滋之,ITmedia]
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 翌朝。和人は朝一番に本部に直行した。

 C市の営業所と比べものにならない大きなビル。23階立ての最上階の応接室に和人は通された。

 晴れていたら東京の街並みが見渡せただろうが、あいにくの雨だった。間接照明の薄暗い部屋で、適度に身体が沈みこむソファーに座っていると、和人自身も暗く沈んでしまいそうになる。

 制服の女性が持ってきてくれたお茶を飲みながら、5分ほど待つと、応接室のドアが静かに開いた。

 「はじめまして、吉田所長。田島です」

 身長160センチくらいの細身ながら丸顔の男が、やや甲高い声で挨拶した。額は少し後退している。薄い唇が笑顔を作っているが、眼鏡の奥の細い目は笑っていない。オーダーメイドと思われるダークスーツをきちっと着こなしている。この雨だというのに、裾の乱れも靴の汚れもない。まったく隙のない営業本部長である。

 「吉田さんの噂はかねがねお聞きしています。敏腕営業だそうですが、人を使うのは難しいんですかね?」

 「私の力不足で申し訳ない思いをしております」

 「今回のマイラインのキャンペーンのために、ぴったり100営業所を用意しました。C市は今何位でしたっけ?」

 知っているからこそ呼び出したのだろう。イヤミな野郎だ。和人は沈黙することにした。

 「先週の営業会議で営業統括役員から、100営業所は多すぎるんじゃないかと、指摘がありました。私としては統廃合を検討せざるを得ない立場になったわけです」

 「……」

 「C市の営業所の月の目標契約数は何本でしたっけ?」

 「350回線です」

 「今、何本ですか?」

 知っているくせに。毎日24時までに、その日の契約本数をコンピュータで入力することが義務付けられている。

 「昨日の締めの時点で、105回線です」

 「350回線はきつそうですね」

 「田島本部長。当営業所では、ようやくいろいろな仕込みが実り始めてきたところなんです。来月には、今までの分を取り戻して余りある契約数に必ずなります」

 「伝説のマイライン営業の吉田さんの言うことだから信じたいのですが、最下位を継続中ですから、ある程度の結果を出してもらえないと取り潰すしかないのです。私の立場も分かってください」

 和人は再び沈黙した。確かに結果が全てである。その責任はもちろん自分にある。

「今月は目標本数を達成してください。それが出来なければ、来月すぐにF市の営業所と統合します。これは決定事項です。よろしくお願いしますね」

 それだけ言うと、次の会議があるからと田島は部屋を出て行った。

 営業所に戻ると、すぐに所長室に立てこもった。契約の見込み表をじっと眺めた。このまま推移すると、100回線ほど足りない。

 ノックの音がした。アネゴが心配そうな顔で入ってきた。

 「ああ。アネゴか。どうしたの?」

 「元気がないから、本部で何を言われたのかと思って」

 「まあ、座りなさい」

 アネゴは、所長席の横に用意してあるパイプ椅子に座った。

 「実は、今月の目標を達成しないと、F市の営業所と統合するということを言われたんだ。当然オレはクビになる。事務も一緒だろう」

 「見込みはどうなんですか?」

 「オレのヨミでは100回線ほど足りない。奇跡でも起こらないと無理だろう。アネゴは優秀な事務だ。悪いことは言わない。今から次の職場を探しなさい」

 「ちょ……ちょっと、待ってください。まだ半月あります。みんなようやくやり方を覚えてきて、営業成績も上向いてきてます。あきらめないで」

 「もちろん全力は尽くすさ。しかし、可能性は非常に低い」

 「このまま営業所が潰されたら、みんなただの負け犬になっちゃいます」

 「人生に勝ち負けなんかないさ」

 「みんな所長の下で、やっと仕事が楽しくなってきたの。それがF市と一緒になったら、元通り何も結果が出せない人たちになっちゃうと思う。そんなの嫌です」

 負け犬は、オレのほうさ……。和人はそう思ったが、口に出すのは押しとどめた――。

第5回 負け犬

連載「奇跡の無名人」とは

 筆者の森川“突破口”滋之です。普段はIT関連の書籍や記事の執筆と、IT関係者を元気にするためのセミナーをやっています。

 Biz.IDの読者には、管理や部下育成といったことや、営業など専門知識以外のビジネススキルに関することなどに関心を持ち始める年代の方が多いと聞いております。

 そういう方々に役に立つ話として、実話をベースにした物語を連載することになりました。元ネタはありますが、あくまでもフィクションであり、実在の団体・人物とは関係ありません。

 今回の物語は、ぼくのビジネスパートナーである吉見範一さんから聞いた話を元にしたものです。ある営業所の若い女性が起こした小さな奇跡について書きます。営業経験がなく、日本語が達者じゃないのに法人営業に成功した話が始まります――。

著者紹介 森川“突破口”滋之(もりかわ“とっぱこう”しげゆき)

 大学では日本中世史を専攻するが、これからはITの時代だと思い1987年大手システムインテグレーターに就職する。16年間で20以上のプロジェクトのリーダー及びマネージャーを歴任。営業企画部門を経て転職し、プロジェクトマネジメントツールのコンサル営業を経験。2005年にコンサルタントとして独立。2008年に株式会社ITブレークスルーを設立し、IT関係者を元気にするためのセミナーの自主開催など、IT人材の育成に取り組んでいる。

 2008年3月に技術評論社から『SEのための価値ある「仕事の設計」学』、7月には翔泳社から『ITの専門知識を素人に教える技』(共著)を上梓。冬には技術評論社から3冊目の書籍を発売する予定。


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