「負け犬人生か」――。和人は、上京して専門学校に入学したころを思い出す。バイトで学費を稼いでいたが、バイト先がつぶれて学校どころではなくなってしまったこと。最初に勤めた完全歩合制の百科事典販売では、成績を上げたが体を壊してしまったこと。商社に勤めた後、友人に誘われた電気製品の卸売りも大型量販店に敗退したこと。コンサルタントとして名を上げようと受けた今回の営業所長も、目標までのめどが立たない状況だった――。
マイラインの営業で名を馳せた吉田和人は、ある通信事業者から営業所長を頼まれる。「優秀なメンバーを集めた」という触れ込みだったが、最初の1週間の営業成績は0回線に終わった。
巻き返しを図る和人は、本部に内緒でチーム編成を刷新。マザーとクオーターは個人向けの「仲良しチーム」、ロバさんとオタクは中小を攻める「ロバさんチーム」、タカシとショージは大手に営業する「大口兄弟チーム」、イケメンとジンジは営業サポート――。
当初調子が出なかった仲良しチームに同行したり、なかなか売り上げが上がらなかったロバさんチームを辛抱強く待ち続けたりした和人。徐々に結果は出てきた。そんな時、本部から呼び出しがかかる。
本部の要求は、目標の350回線に達しなければ営業所を統廃合するというもの。和人のヨミでは100回線ほど足りない。「このまま営業所が潰されたら、みんなただの負け犬になっちゃいます」と部下の声。「負け犬は、オレのほうさ」――ふさぎ込む和人であった。
「負け犬人生か」――。
帰りの電車の中で和人は、アネゴの言葉を繰り返していた。朝から降り続いている雨は、夜になってますます強くなっていた。電車のガラス窓に雨粒の当たる音が聞こえてきそうな降り方だった。
あいつらのどこが負け犬だ。大口兄弟だって二流かもしれないけど大学を出ている。まだ若いメンバーは、これからいくらでも挽回できる。高卒でいい歳してフリーの営業をやっている自分のほうがよっぽど負け犬じゃないのか? 所長といっても雇われだ。何の権限も保証ない。本部のエリートが切り捨てようと思えば、いつだってそれは可能なのだ。
和人は別に自分の学歴を恥じているわけではない。周囲に大学に進む人間の方が少なかった地方の出。ただ、もう少し将来を考えるべきだったんじゃないかという後悔はある。
高校を卒業して上京。「勉強が嫌いなら、せめて手に職をつけておけ」という親の強い勧めに従って、専門学校に入った。国語や社会など文系の科目はぜんぜんダメだったが、物理は得意だったので、レントゲン技師の専門学校に入った。学費はバイトで稼いでいた。病院でレントゲン技師の手伝いをするバイトだ。ところがそのバイト先がつぶれてしまい、学校どころではなくなった。
バイト先に出入りしていた業者が、君は話が面白いから営業に向いてるんじゃないかと、百科事典の販売の仕事を紹介してくれた。和人は完全歩合制の意味も知らずに、そこに勤めることにした。入ってから3カ月間は10万円程度の給料が出るという契約だった。先輩と話をしているうちに、1つも売れなければ、4カ月目からは交通費以外はもらえなくなることが分かった。それからは必死になって先輩のやり方を盗んだ。
いろんなテクニックを覚えた。先日仲良しチームに教えた、地図を使って話のきっかけをつかむというのやり方もこのころ学んだ。どこの家が自分たちの売っている百科事典を買っているかを調べて回った。クラスで一番成績の良い○○ちゃんは、うちの百科事典を使って勉強しているという情報に母親たちは弱かった。
うちの子は本を読まないから、という母親がいた。和人は、その子供と話をさせてもらった。プラモデルやゲーム機で足の踏み場もないような部屋だった。
「本を読まないんだって? なんで?」
「だって、面白くないもん」
「ふーん。だったら何が面白いの?」
「車とか」
「へえー。自動車に興味あるんだ。じゃあ、これ見てごらんよ」
和人は、自動車の歴史が載っている巻を広げた。そこには年代順に自動車がどう進歩してきたか、図解で説明してあった。
「昔は、こんな形をしてたんだよ。時速も数十キロしかでなかったんだ」
「へえー」
「このころだと、もう今の車とそっくりでしょ?」
「そうだねえ」
「トヨタ2000GTっていうんだけど、今の車よりかっこよくない?」
「うーん。微妙」
「そうか。おじさんは大好きなんだけどね」
「こっちのコスモスポーツってやつのほうが好きだな」
いつの間にか、事典は子供の手の中にあった。熱心に見つめている。和人は話しかけるのをやめた。
「ねえ、そっちも見せて」
数分後「天文・気象」というタイトルの巻を子供が要求したのだ。惑星や星雲の写真を見ながら、「わあ、すげえ」と感嘆の言葉をときどき発している。
母親がお茶を持って、様子を見に来た。
「おかあさん。すごいんだよ。ここに行くまでに、光でも100万年かかるんだって」
母親は、驚きのあまり目を見開いたまま和人の方を見た。和人はしたり顔で見返した。
3カ月後、母親が名刺の住所を見て、わざわざ事務所までやってきた。クレームかと思って身構えたが、お礼が言いたいのだという。「あの百科事典。もうぼろぼろになっちゃって。もう1セット買うわ」
売り方が分かってからは、順調だった。既に持っている家にも、弟さん用にと売ってしまったことさえある。給料は現金支給だった。毎月、たとえではなく本当に給料袋が立つほどの収入があった。貯金もできた。営業の仕事が面白くなって、無理もした。だんだん体が蝕まれていることに若い和人は気づかなかった。
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