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交通事故で誰も死なない社会に池田直渡「週刊モータージャーナル」(1/3 ページ)

» 2018年10月15日 06時30分 公開
[池田直渡ITmedia]
ドクターヘリと連動する緊急自動通報システム「D-Call Net」は2015年11月から試験運用が始まった ドクターヘリと連動する緊急自動通報システム「D-Call Net」は2015年11月から試験運用が始まった

 静謐に沈む山岳路。色づいた樹々を縫う路面はわずかに湿っており、黒々としたアスファルトの上に紅葉が鮮やかに散る。

 あなたは今、神のようにそこで起こることの全てをリアルタイムで知ることができる。視点をぐっと上げて俯瞰(ふかん)してみる。朝霧を鋭利に切り裂きながら、紅葉の中を1台の白い新型クラウンが下って来た。道路はため息をつくほど美しく屈曲しながら、急傾斜の山肌から差し出される枝をかすめて、勾配のきついブラインドコーナーを左に回り込む。運転席の男が助手席の女に何か話し掛けている。車速はおよそ時速70キロ。指定速度を30キロもオーバーしている。

 ドライバーはその先に、呑気に立ち尽くしている鹿の存在を知らない。瞬間、フルブレーキ――のつもりだが、慣れない急制動で踏力が足りない。クラウンに搭載されるアクティブステアリング統合制御(VDIM)が車両コントールを開始する。

 まずプリクラッシュブレーキアシストが起動し、制動力をタイヤのグリップ限界まで即時に上げる。しかし、濡れた落ち葉のせいでグリップは頼りない。アンチロックブレーキ(ABS)が作動して断続的にペダルを蹴り返しながらその路面での最大減速を保ち続ける。

 驚いた鹿は一瞬怯えてすくみ、ややあって駆け出すが、接触は避けられそうもない。ドライバーは本能的に反対車線側にステアリングを切る。ABSはわずかにその作動を緩め、前輪が横力を発生する。すでに制動開始時から作動していたビークルスタビリティコントロール(VSC)が右後輪へのブレーキを強めて車両の自転運動を補助する。鹿はなんとかかわしたものの、これだけの安全装備を駆使しても事故を完全に防ぐことはできない。

 静寂を破って重い衝撃音が響いた。プリクラッシュブレーキサポートが衝突の瞬間まで限界制動を維持した結果、衝突時の速度は下り坂にもかかわらず、時速40キロまで落ちていた。クラウンは右前から斜めにガードレールに接触した。瞬間、フロントバンパーに仕込まれたセンサーが各部に指令を送る。まずエマージェンシー・ロッキング・リトラクター(ELR)シートベルトがシートベルトを巻き取り、乗員の身体拘束を強め、次にサプリメンタル・リスレイント・システム(SRS)エアバッグが作動する。

 クラウンのフロントメンバーがその設計通り、正確につぶれて衝突エネルギーを吸収する。ガードレールもまたひしゃげて衝撃を吸収したが、速度が高すぎた。クラウンは右フロントを起点に右回転し、壊れた部品を路面に撒き散らしながら後ろ向きになって道路中央で止まった。フロントウインドーは割れて真っ白だが、二重にしたガラスの間に樹脂を挟み込んでいるおかげで、ガラスは飛散していない。高張力鋼板を使って高強度に組み上げられたキャビンも変形はない。代わりに衝撃を吸収してつぶれたエンジンルームと、ガラスを破って室内に侵入させないため設計通りくの字に折れ曲がったボンネットの間から、破損したラジエターが湯気を吹き上げる。

 2人の乗員は意識を失っているらしく身動きもしない。見ると助手席の女性はシートベルトを締めていない。シートベルトなしではエアバックがあろうとも効果は限定的で、衝突の衝撃で全身を打ち付けたらしく、特に頭部から激しい出血を起こしている。

 すでに動きを止めたクラウンは、2人の乗員が意識を失う中、まだ活動を続けていた。エアバッグの作動を検知した電子制御ユニット(ECU)は即座に緊急自動通報システム「D-Call Net」を起動し、事故データを「日本緊急通報サービス(HELPNET)」に送信する。オペレーターサービスを受託するセコムのオペレーションルームではアラームが鳴り響き、オペレーターがすぐにシステムを経由して事故車両に音声で呼び掛けるが、返事はない。

「D-Call Net」の自動通報を受けて対応するセコムのオペレーター 「D-Call Net」の自動通報を受けて対応するセコムのオペレーター

 ほぼ同時に、オペレーターの前に設置されたモニターに各種情報が映し出される。事故の正確な位置情報と車種、車体色、ユーザー氏名、車両登録番号、衝突方向、衝突の厳しさ(加速度)、シートベルト装着の有無、多重衝突の有無のデータ。約280万件の過去の事故データを用いた死亡重傷事故推定アルゴリズムによって前方2席の「死亡・重傷率」が判定される。助手席の女性がシートベルトを非装着であり、衝突加速度が大きく危険な状態であることが各所にデータ送信された。

 全国31都道府県、42病院に配備された37機のドクターヘリの中から、事故発生地域を受け持つ病院にデータを送信。病院のドクターヘリ基地でセコムととほぼ同時に情報を受け取った医師は瞬時に状況を判断し、出動を決定。事故から3分後には医療チームを乗せたドクターヘリが飛び立った。現場までの飛行時間は18分。

 消防への通報は事故発生の1分後。消防はただちに病院と連携を取り、着陸地点となる最寄りの学校などの施設に着陸許諾を取った。事故現場直近の消防署から出動した指揮車両が現地に到着。すぐさま着陸地点の整備を行う。有視界飛行のヘリは砂塵を巻き上げると着陸できない。着陸地の斜度などの安全を確認しながら散水を行って砂塵対策をし、着陸の準備を行う。

 着陸したヘリから降り立った医師は、消防の指揮車両に乗り換えて現場に急行する。幸い着陸地点から事故現場は近く、2分で到着できた。

 現場に到着した医師はすぐさま怪我人の治療を開始した。事故発生から23分後のことだった。実証実験では従来のシステムに比べて約17分短縮できるという。

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