武市さんは小学校5年生から行商に出た。家は貧しい開拓農家で、野生のウサギの肉や皮、野菜を背負い生活のために売っていたのだ。当時は午前2時に起床して水くみなどをし、5時には野菜を売りに出てから学校へ通う毎日である。「勉強なんかする暇もなかった」という。
ある日、野菜籠に入れたレンゲツツジ3本が、野菜より高く売れたことがあった。武市さんはその時に「花って軽いのにこんなに高く売れるんだな」と驚いたという。
転機になったのは、進学するか就職するかを決めなければならなかった中学2年生のころだった。武市さんは、花を自分の一生の仕事とすると決めたのだ。自宅の裏山の斜面に小さな段々の花畑を造り、自分だけが育てるのではなく「太陽が育て殖やしてくれる庭」との思いを込めて「陽殖園」と名付けたという。
「俺だけが花園を作っていたんじゃ面白くないだろ? ただ花の苗を買って、それを植えているだけじゃあね。自然が勝手に育ててくれた方が楽しいじゃない」
ただ、この8ヘクタールの花園はとても自然にできた代物ではない。武市さんは花の仕入れも生育も全て独学でやってきた。幾度とない失敗を重ねて今の形があるのだ。中学卒業後、本格的に切り花の卸や鉢植えの行商を始めた当時も、温室で育てた主力のサボテンが寒波で壊滅したことがある。その時に「一生涯かけてこの土地で育つ花を育てよう」と誓ったという。
農薬は50年前から使っていない。当時、農薬は「神の兵器」とも呼ばれており、使わないことを笑われた。それでも使わなかったのは、「殺虫剤や除草剤を使えば、昆虫や野鳥にも影響が出る。空気のおいしさも壊れてしまう。だから人間にとっても危険だと、理屈ではなく本能で嗅ぎ取っていた」からだ。除草剤をまくガーデナーが多い中、武市さんはひたすら草刈りをして、来園者が通る道を整えている。次から次へと生い茂る笹の葉もハサミで地表ぎりぎりまで刈り、それを3年ほど繰り返す。そうすると養分が行き渡らなくなった根は枯れ、そのまま肥料になるのだ。「今考えればゾッとするほど働いた」という。
「『この場所でやれることは何か』を模索してきたんだ。この場所を根城(ねじろ)にして一生をかけて何をやるか、とね。夢は自分で作るものだよ。現実にできる夢を見ないとね」
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